梶ピエールのブログ

はてなダイアリー「梶ピエールの備忘録。」より移行しました。

パラリンピック開会式と、ウォーリー木下さんのこと

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 パラリンピックが終わってからから、早いものでもう一週間になる。すでに多くの人が語っているように、パラオリンピック開会式(および閉会式)は、オリンピックの開会式よりも、はるかに「よかった」。そしてそれは、当初開催について批判もあったパラリンピック全体への、事後的な高い評価にもつながっているように思う。
 では、パラリンピックの開会式はどこが「よかった」のだろうか。

  オリンピックの開会式と異なり、統一感があった。多様性の重視、というメッセージがダイレクトに伝わってきた。また、エライ人たちからの余計な横やりがなく、クリエーターの「遊び心」がのびのびと発揮できた、など、すでにいろいろなことが言われている。首都圏を中心としたデルタ株の感染拡大がピークアウトしつつあったことの効果もあったかもしれない。だが、一番重要だったのは、久しぶりに、まっすぐでポジティブなメッセージが、公式な場で発せられたからではないだろうか。

 特にオリンピック前にはTwitterなどで日々繰り広げられるネガティブな言葉の応酬に、うんざりしていた人は多いはずだ。確かにオリンピックの競技始まってからは、開始前のゴタゴタはすっかり忘れられ、メダルラッシュに沸いた、つまり、社会にポジティブな気分があふれた、ように見えるかもしれない。しかし、それは言ってみれば、頭では決して納得していないのだが、多くの人々が、ある種の強い感情を喚起する映像を見せられ、いわば身体レベルで「無理やり感動させられている」ような、深刻な分裂状態におかれたのに過ぎなかった。
 僕は原則NHKしか見ない人間なのだが、オリンピック期間のNHKの報道の「分裂」ぶりは特にひどかった。コロナ関連の「危機」を強調する報道と、オリンピックの「感動」を伝えるはず報道とが、いきなり頻繁に切り替わるうえに、両者の落差をどう受け止めればいいのか、それらを統合するためのメッセージが画面を通じて伝えられることもほとんどなかった。本来なら政治家がその仕事を果たすべきなのだろうが、それから間もなく辞意を表明することになる現首相には、いうまでもなくその能力が絶望的に欠けていた。

 だから、パラオリンピックの開会式で発せられた「困難を抱えながら夢を追求する人たちのさまざまな生き方を肯定し、応援しよう」という、政治家やメディアから聞くことのできなかったシンプルで力強いメッセージが多くの人の心に響いた、ということはあるだろう。

 だが、僕にとっては、それ以上にこの開会式は特別な意味を持つものだった。演出のウォーリー木下氏が、神戸大学の演劇部「自由劇場」に同じ年に入部した仲間だったからだ。

 とはいえ、僕にウォーリー氏の現在の活動について何か語る資格があるわけではない。彼が主催している劇団Sundayの前身だった「世界★一団」の舞台には初期のころはよく足を運んでいたが、30歳になり、大学で教え始めるようになってから次第に仕事が忙しくなり、劇場に足を運ぶこと自体めっきり少なくなった。だから彼の舞台ももう20年くらいは見ていない。実際に会ったのも10年以上前である。にもかかわらず、開会式で僕が見ることができたものは、学生時代から変わらない、「ウォーリー木下の世界」そのものだった。そのことをまず伝えておきたい、と思った。

 特にどうしても語っておきたいのが、彼が大学3回生の時に演出した「ラ・フェスタ」という作品のことだ。ちょうどその年に開催されたバルセロナ・オリンピックが舞台で、アンダルシア生まれのニヒルな殺し屋が、難病を患い、感情を失った車椅子の少女と出会ったことで生き方を変えることを決意する。そして、彼女を感動させるためにマラソン選手として出場することを目指し、血のにじむような努力の末、栄冠を勝ち取り、少女は感情を取り戻す、という筋書きだった。そう、オリンピックと車椅子の少女。開会式を見た時、当時を知るものなら、この作品のことを連想せずにはいられなかった。

 これは当時惑星ピスタチオを率いて飛ぶ鳥を落とす勢いだった西田シャトナー氏も絶賛した快作で、この作品の成功がその後の彼の歩みを決定づけた、と、少なくとも僕たちは信じている。そんな「大成功」だった公演でも、実現するまでは、あたりまえだが様々な困難があった。今思えば、ウォーリー氏には、当時から理想とする舞台のイメージが明確にあって、それを妥協せずに表現することを目指していたのだと思う。ただ、それは、別に将来プロになることを目指しているわけではない僕たちにとっては、結構な重荷になるものでもあった。

 そのとき、僕は音響効果を担当していたのだが、特にスタッフは大変だった。まず、台本の完成が遅かった。しかも、稽古の状況を見て少しづつ書き足したり、前のシーンを書き直したり、ということが続いた。これは役者にとっても大変なことだが、スタッフにとってはかなりつらいことだった。最終的に必要な作業のイメージがつかめないまま、本番が近づいていくからだ。
 それでも音響効果はまだましな方で、照明のスタッフはもっと大変だった。小劇場演劇では、照明の色や当て方によってそれぞれのシーンを分けていく。新しいシーンが増えるほど、照明のパターンを変えなければならないので、吊り下げる照明機材の数はどんどん増えていく。しかし、貧乏な学生劇団のこと、自前で持っている機材の数には限りがある。足りない分はレンタルする必要があるが、台本が完成しない限り、必要な予算がどれくらい膨らむかもわからなかった。
 
 さて、そうこうするうちに、芝居の尺はどんどん長くなって、最終的には3時間を超えていた。それほど演技がうまいわけでもない学生演劇で、あまり上演時間が長すぎると、客が付いてこなくなるリスクがあった。だけども、場面を適当にカットして短くするだけの時間的余裕はない。結局そのままで上演することになった。それでもゲネを何回か行った後には、僕たちもそれなりに手ごたえを感じていた。同時に、スタッフや役者たちの疲労も限界まで来ていた。

 そして、なんとか本番を迎えた・・はずが、開演直前にまたとんでもないことが起きた。照明スタッフが最後の点検を行ううちに、ライトが一つも点かないことが判明したのだ。すでに客入れは始まっていたが、開演時間を過ぎてもまったく復旧の見込みが立たなかった。「・・もうあかんのちゃうか」。僕たちの多くに、そんな考えが頭をよぎった。しかし、観客たちは粘り強く開演を待ってくれている。

 何とかせな、ということで、その日観客として来ていた先輩たちが、急遽ボランティアで舞台に上がって漫談を始め、場をつないでくれた。そのうち、僕たちの祈りが通じたのか、照明の電源系統は何とか復旧し、幕を開けることができた。エンディングを迎えたのは、本来の開演時間から4時間以上たっていただろうか。だけど、だれも文句を言う観客はいなかった。

 よくある、学生時代の部活動の思い出話だ、と言ってしまえばそれまでかもしれない。しかし、上記のような開演を前にしての「逆境」が、僕にはどうしてもパラオリンピック開催前の風当たりの強さとがオーバーラップしてしまう。もちろん、この時と違うのは、今回は「このようなイベント自体やるべきではない」という世論の批判、というより克服するのが困難な「逆境」が存在していたことだ。
 ウォーリー氏自身が次のように語っている。「音楽業界にしろ、演劇業界にしろ「やらない」という選択肢が善みたいな時期があった」「でもきっと、やることの善もある。日本の舞台芸術、アートの世界で、障がいのある人たちがもっと羽ばたけるような素地をつくっていきたいという気持ちがあった」。

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 さて、この辺で冒頭の問いに戻ろう。パラリンピックの開会式、そしてそこに込められたメッセージは、どこが「よかった」のか。それは困難な状況の中で、関係者が、悩んだ末に発することを選んだポジティブなメッセージだったから、そして何よりもそのことがストレートに伝わるような構成になっていたから、ではないだろうか。実際、開会式に関わった多くのパフォーマーの多くが、感染拡大の中、悩みながら最終的に出演することを決めた、ということを語っている。

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 悩んだ末に発せられる、ポジティブなメッセージ。それはさまざまな否定的な言葉を排除した上で出てくるものではなく、それらを包摂したものであるはずだ。どんな状況でも、問題のありかを指摘する否定的な言葉はあってよいし、忘れられてはいけない。しかし、それらの否定的な言葉が生かされるためには、誰かが、それらを受け止めた上で、ポジティブな言葉を語る必要がある、のではないだろうか。そういった言葉が発せられ、多くの人に受け止められるかどうかが、逆風の中で何か大きなことをやり遂げなければならないとき、後で「それでもやってよかった」と思えるか「やはりやるべきではなかった」という結論になるか、の差を生み出す。僕はそのように感じている。

 思えば、学生の時の僕はアート系の映画などに惹かれている頭でっかちの若造で、誰にでもわかりやすい、ポジティブなメッセージを前面に出した舞台を作り上げることの大切さがなかなかわからなかった。そのことが少しでもわかるようになったとすれば、身近なところでウォーリー氏の舞台に接することができたからだと思う。

 もちろん、変わったのは僕の感性だけではないだろう。「ラ・フェスタ」ででてくる車椅子の少女は、オリンピック選手の活躍を見て心を動かされる、受動的な存在だった。それに対して開会式の片翼の少女は悩み抜いた末に、自らが飛ぶことを選択する。演出家としての感性は同じでも、少女を能動的な存在として活かしきったことに、30年という年月を経たウォーリー氏の人間的な成長が感じられた。これは彼自身が、「悩んだ末にポジティブな方を選ぶ」生き方をこれまで続けてきたがゆえの変化に違いない。

 繰り返しになるが、この社会が忘れかけていた、ポジティブな言葉の重要さを感じさせてくれたのがパラリンピックの開会式だった。そのことに、改めてお礼を言いたいと思う。

 ウォーリー、素晴らしい演出をありがとう。