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10月26日(火) 市民と野党の共闘こそが「勝利の方程式」(その3) [論攷]

〔以下の論攷は、五十嵐仁・小林節・高田健・竹信美恵子・前川喜平・孫崎享・西郷南海子『市民と野党の共闘で政権交代を』あけび書房、2021年、に収録された拙稿です。3回に分けてアップさせていただきます。〕

 市民と野党の共闘―その源流と発展

 「戦争法」(平和安全法制)の反対運動が盛り上がったとき、上智大学の中野晃一教授が「敷き布団と掛け布団」の例を出して両方の大切さを指摘していました。労働組合やさまざまな各種社会運動団体など以前から活動しているのは「敷布団」。一方、新しく加わってきた個々の市民、SEALDs (自由と民主主義のための学生緊急行動)などの青年・学生や「ママの会」などの女性、学者の会や弁護士などは「掛け布団」だというのです。「敷布団」と「掛布団」が合わさってこそ、大きな力になると中野さんは言っていました。そのとおりだと、私も思います。
 「敷布団」ということで言えば、労働組合の注目すべき動きがありました。リーマン・ショック後、日比谷公園での「年越し派遣村」の経験です。派遣切りをされ職と住を失った労働者を支援するために、連合系の労働組合と全労連や全労協が一緒になって食糧支援などに取り組みました。これは今日に至る野党共闘の一つの源流だといえます。
 高田健さんが中心になっている「戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会」に、連合の旧総評系労働組合が結集する団体の元締めである福山真劫さん(前「平和フォーラム」代表)や前全労連議長の小田川義和さんなどが参加しています。つまり、総がかり行動実行委員会の中で労働組合がしっかり連携する枠組みができあがっている。それが土台となって、そのうえに個々の市民や様々な市民団体、全国革新懇(平和・民主・革新の日本をめざす全国の会)や九条の会などが結集する形になっているわけです。このような重層的構造が、今日の市民運動の活動や共闘を支えていることを忘れてはなりません。

 「統一戦線」とは、政治的理念や政策が様々である政治・社会運動団体が、共通する目標や目的のもとに「行動を統一」するということです。1930年代、コミンテルン(Communist International)の下で出された統一戦線政策は、ファシズムに対して民主主義と自由を守ろう、戦争をめざすような勢力に対して平和を守ろうという目標で一致する人たちが行動を統一して始まりました。
 これは「反ファシズム人民選」へと発展し、フランスやスペインなどで成功する。社会党や共産党が統一戦線を組んで反ファシズムの人民連合政府を作りました。中国でいえば国民党と共産党との「国共合作」です。
 思い返せば、私が提出した法政大学大学院での修士論文は「コミンテルン初期における統一戦線政策の形成―特にドイツ共産党との関係を中心に」というもので、法政大学社会学部『社会労働研究』という学術誌の1978年2月号に掲載されました。私にとっては初めて活字になった論文で、研究者生活の出発点が統一戦線の研究だったのです。
 その後、「平和安全法制」(戦争法)反対運動が高揚した2015年5月の講演で、私は皆さんに中国の辛亥革命のときの「国共合作」と同じように、「民共合作」を目指すべきだと訴えました。「民」は民主党(その後、民進党)で「共」は共産党です。民主党と共産党の両党が手を結んで共闘する「民共合作」が戦争法阻止を求める勢力にとって必要なものだと考えたからです。
 その年の9月15日に自公政権の強行採決で「戦争法」が成立しましたが、その日の午後に共産党は立憲野党による「国民連合政府」の樹立を呼びかけました。これは当時、かなり唐突なものと受け取られましたが、それがめざす方向性は正しかったと思います。
 結局、翌2016年7月の参議院選挙に向けて、2月に5つの野党による「五党合意」が結ばれます。こうして、参議院選挙の1人区を中心とする選挙共闘という流れになっていきました。

 統一戦線政策の歴史的継承

 歴史を振り返ってみれば、日本でも1937(昭和12)年から翌年にかけて人民戦線の結成を企てたとして、加藤勘十・大内兵衛ら日本無産党や労農派の関係者400余人が検挙された「人民戦線事件」がありました。私は法政大学の大原社会問題研究所で所長もやりましたが、大内さんは元の法政大学総長で、戦前は大原社研の研究員でしたから関連の資料が残っています。
 この人民戦線という考え方も、反ファシズム統一戦線と同様のものです。その考え方を大内さんが受け継ぎ、美濃部亮吉さんを都知事選挙に担ぎ出して1967年に革新都政を実現しました。社会党と共産党の共闘(社共共闘)の仲立ちをするわけです。これが革新自治体の時代を切り開くことになります。
 1980年に社会党と公明党との間で共産党を政権協議の対象から外す「社公合意」ができ、社共共闘が中断されたような形になりました。それを打開することをめざして革新懇ができました。私はいま、全国革新懇の常任世話人をやっています。先輩たちが統一・共闘の流れを絶やさずに引き継ぎ、歯を食いしばって力を尽くしてきたわけで、その努力がようやく報われるのではないかと期待しています。
 いまの政治を変えたいと思っている人たちはどんどん声を上げ、幅広くできる範囲で手を結んで行動し、発言していくことが必要です。いまでは、それが力になって大きな成果を挙げています。
 コロナ禍で集まるのは困難ですが、ネットなどを活用して署名を集めたり発言したりする。それが大きな効果を発揮しています。東京オリンピック組織委員会の森喜朗さんの会長辞任も、独断で決めた後継者を選び直させる際も、あるいは入管法改定法案が取り下げられたときもそうでした。リアルで行う集会などとともに、ネットでの反応が政治を動かし変える大きな力になってきています。

 先にも述べましたように、私の研究者生活の始まりは統一戦線研究でした。1993年に法律文化社から出した拙著『概説 現代政治―その動態と理論』の「あとがき」にも「日本共産党の力と政策を構成部分とする『大左翼』の結集」が必要だと書いています。統一の力で政治を変えたい。これが私の生涯をかけた「夢」だったのです。
 おこがましくも「共闘の伝道師」を自認してきましたが、ようやくリアリティをもって「夢」を語ることができるようになりました。こうなると、もう「夢」ではありません。共闘の力によって政権交代を実現できるかもしれない時代が訪れてきたわけで、まことに感慨無量です。それが実現するように、来る総選挙に期待しています。

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