2021年10月19日

子規における批評

正岡子規が『歌よみに与ふる書』において、伝統的和歌観に挑戦する鋭い批判を展開したことは有名だ。我々はそこに、近代の芸術批評の模範を見ることができる。明治期にわが国に近代文学を導入した先人たちの様々な苦労についてはさまざまに論じられてきた。言文一致運動や新体詩の試みなどはその一部だろう。その中で子規の貢献も忘れることはできない。
 その貢献は、有名な写生の理論などではない。何より文学に批評を導入したこと、そのことに意味があった。狭い流派の文化圏の内部では、師匠からの添削はあっても、批評というものはなかった。そこでは、常に古歌が参照され、決まりとなった言葉遣いや花鳥風月といった題材にとらわれていたと言ってもいいだろう。子規はそこに、因習にとらわれぬ批評的態度で挑戦し、近代芸術として短歌の世界を一新したのである。「写生」は、その為のいかにも便利なイデオロギーにすぎない。「写生」であれば、古歌への参照は意味を失うからである。


 なぜ近代になって初めて芸術批評の意識が芽生えるのか? それは以前にも述べたように、芸術家が新機軸を狙う個人経営者型になったからである。作家が新機軸を狙うようになると同時に、旧い作品群の月並みや陳腐を批判する意識が目覚める。企業家がイノヴェーションによって旧来の技術を陳腐化するようなものだと言えるだろう。ヴィヴァルディの弦楽合奏曲は,おもに彼が教えていた女子音学校の生徒のために作られたものであり、教育的観点から書かれている。その為どれも似たり寄ったりの作風になっている。バッハやモーツァルトでは、他人から素材を借用したり、自分の作品の一部を使いまわしたりすることを気にも留めていない。これらに対してベートーヴェンとなると、一作ごとに観客の度肝を抜いてやろうとする意欲にあふれている。ベートーヴェンの前後のあたりで、作曲家の自意識が一変したのがうかがわれるのである。
 クレモナの名工たちのように、先人の傑作の寸分たがわぬ模倣を志した人たちが、必ずしも月並みな作品を生み出したわけではなかったように、月並みを逃れようとする強迫的意識によって、常に独創的作品が生まれるわけでもない。しかし、独創性・新機軸が芸術家としての存在証明であり、それが工芸品と芸術作品を区別するものだとなれば、どこが新機軸であり趣向なのかを解説する批評の需要が高まるのは当然だ。
 芸術が狭いしきたりの世界から解放されて、広く市場に出回ると、多様な生活圏に生きるクライアントを相手にせざるを得なくなる。旧い因習が月並みとされる一方で、新機軸を多様な人々に解説する必要があるのだ。
 批評は、一方で本物の独創の独創たるゆえんを指摘するとともに、他方で一見独創をてらう作品が、いかにその底では旧来の模倣に終始しているかを暴かねばならない。これこそが、近代芸術自身の批評性とともに、芸術からの批評の独立の背景である。
 かつては、せいぜい骨董の真贋を見破る目利きのようなものがあったにすぎない(ちなみに、小林秀雄などは、初期の批評から晩年は後退して、達人的な目利きの道へ近づいている。その点で批評性を失っていくのである。それは彼が初期にはプロレタリア文学というライヴァルが存在したのに、その後はそのような好敵手が消滅したからであろう)。
 しかし、子規の個々の作品批評は当たっているだろうか? 「紀貫之は下手な歌詠みにて候」と豪語した子規は、実際のところ自身が下手な歌詠みであったが、それ以上に彼の批評は極めて独断的なものであった。
 子規は、小式部内侍の歌について「歌として、それほどの値打ちもなけれど、歌を得作らじと思ひし人の即座に作りしと、その歌がその場合によく適合したるとのために、人を驚かしたりと覚ゆ」(『歌よみに与ふる書』岩波文庫版 以下同様p−90)と、ある程度は納得できることを述べている。ただ、この社交的文脈の価値を評価できないのだ。しかし、歌の即興性や社交性を切り捨てて、独立した作品として評価することだけが歌本来の味わい方だなどと、どうして言えるのだろうか? 古来の秀歌の多くを切り捨ててまで、「近代芸術としての短歌」を打ち立てることに、それほどの価値があるかどうか、議論の余地があるだろう。
 『歌よみに与ふる書』で批判されているのは、主として理屈に流れる歌である。

月見れば千々にものこそ悲しけれ わが身一つの秋にはあらねど

子規によれば、「わが身一つの秋にはあらねど」が理屈だと言う。「秋は万人に訪れ、私一人に訪れるものではない」。子規によれば、この表現が理屈にすぎないのは、否定的表現のためだという。「もしわが身一つの秋と思ふと詠むならば感情的なれども、秋ではないがと当たり前のことを言はば理屈に陥り申し候」(p−17)。
 しかし、「わが身一つの秋にはあらねど」という否定的表現は、かえって「わが身一つの秋」と感じてしまっていることを表現しているのである。理屈ではそうではないが、感情としては「わが身一つの秋」であるかのように、秋が私一人に対して悲しみを帯びて迫ってくるかのように感じているのである。

吉野山 霞の奥は知らねども 見ゆる限りは桜なりけり

ここでも、「「霞の奥は知らねども」と消極的〔否定的〕に言ひたるが理屈に陥り申し候」と子規は言う(p−18)。
 しかし「知らねども」と言うが、実際は知っているのだ。吉野山が、見える他もみな一面の桜であることは知っている。だが、「知らねども」と否定することで、かえって単に知っているにすぎないことが、感じられるようになるのである。
 『新古今和歌集』の宮内卿の歌

薄く濃き 野辺の緑の若草に あとまで見ゆる 雪のむら消え

なども言うならば極端に理屈によっているのではないだろうか? 実景として見えているのは、若草がムラになっている光景だけ。そこから理屈で推理して、雪がところどころ溶け残っていたためだろう、と歌っているのである。歌としては、我々に二つの光景が二重写しになっているような印象が、まず与えられる。その印象が、やがて理屈によって因果的につながって、一挙に謎が解けたような面白さを生じさせるのだ。
 これが「感じられたまま」であるわけはない。感じられたものから理屈によってひねりを加えて、再び複雑化された二重の感覚イメージへと至っているわけである。
 このようにひねりにひねった感覚は、わざとらしく嫌味だろうか? これこそ、新たな新古今の美意識の至高の達成ではないか? ここには、美を愛でるというだけにはとどまらず、美意識を競うという文脈が存在するのである。

見渡せば 山もとかすむ 水無瀬川 夕べは秋と何思ひけむ

後鳥羽院のこの歌など、理屈をこねる歌の最たるもの。もちろんここには、「秋は夕暮れ」という『枕草子』の美意識が前提されている。
 『枕草子』そのものに、単一の美意識ではなく、複数の美意識の競い合いという社交界的文脈が描き出されているのであるが、この歌は、その伝統に掉さすものである。それは、『枕草子』を知らない者にとって無意味なものであるのは明らかだ。
 かくて、社交界で美意識を競うことが、歌の伝統へと持ち込まれた。それというのも、もともと歌が個人の心情の単なる表現とか自然の情景の感動の表現ではなく、主として社交の手段であり、社交の戯れであったからである。
 伝統的和歌の美意識が踏まえるものとされていた古歌の数々に対する教養は、一般市民を排除するものであり、それを前提することなき鑑賞においては、「写生」という一般規準が用意された。しかし、そのような新たな美意識が短歌の正統な伝統であるというためには、伝統についての新たな解釈が踏まえられなければならないだろう。さもなければ、それはもはや和歌ではない何か別のものである、と言われかねないからである。
 そこで子規は、古今・新古今の伝統に対抗して、万葉集という伝統に訴えることになる。子規は万葉集を自分の写生の美意識を支持するものとするのだ。そのため、賀茂真淵の選歌を批判して、橘曙覧(たちばなのあけみ)を持ち上げる。馬淵が万葉集で秀歌として挙げるのはおおよそ古今・新古今的美意識にかなうものばかりであり、万葉の本質をとらえそこなっている。それに対して曙覧は「いつはりのたくみをいふな誠だにさぐれば歌はやすからむもの」と言う(同p−109)。かくて子規は曙覧に依拠しながら、

万葉がはるかに他集にぬきんでたるは論を待たず。その抜きん出たるゆえんは、他集の歌が毫も作者の感情を表し得ざるに反し、万葉の歌はよくこれを現わしたるにあり。他集が感情を表し得ざるは感情をありのままに写さざるがためにして、万葉がこれを表し得たるは、これをありのままに写したるがためなり。(同p−109)

と主張するに至る。
しかし、この「写生」の理論は、子規のイデオロギーにすぎない。また、万葉が作者の感情をありのままに写しだした点においてすぐれている、というのが果たして本当なのだろうか?

『万葉集』のごく初期から相聞歌と言われる歌がある。大海人皇子と額田王の相聞歌。

あかねさす 紫野行き標野ゆき 野守は見ずや 君が袖振る

紫のにほへる妹をにくくあらば ひとづまゆゑに 我恋ひめやも

この歌はもちろん額面通りに受け取れない。これが秘められた禁断の恋の歌なら、公の場で披露されることはあり得ない。これは、恋心を戯言として演じたうえで、社交の席でたわむれに詠まれたものであり、同席した者たち皆を楽しませたものに違いないのである。おそらくそこには、天智天皇御自ら臨席していたはずだ。野守にさへ隠しておかねばならぬものであるはずがないのである。東歌の中に見られる相聞歌に次のようなものがある。

みこも刈る信濃の真弓我引かば 貴人(うまひと)さびて 否と言はんかも
(信濃の弓を引くように、私があなたの気を引こうとしても、あなたはツンと澄まして「いやよ」と言うだろうね)

これに対する女の返しは「実際に弓を引いても見ないで、いくぢなし!」というものであった。
 この相聞歌も個人の恋心を歌ったものではなく、おそらくは集団見合いのような席で、参加者の男女に分かれて合唱されたのであろう。歌い交はすうちには、そこから本当の恋も芽生えたかもしれない。
 いずれにおいても、相聞はありのままの心情を直截に表現するものではなく、戯れの表現であり、集団に社交的雰囲気を盛り上げるために歌われているのである。
 歌はもともと、そのような社交的アウラと一体のものであり、そこから生きた力を得ているものなのである。それゆえ、それがありふれた月並みの表現であることは少しも興をそぐものではない。
 『枕草子』の中で引用されている白楽天の詩句の引用が、ただの引用にすぎないからといって、決して興をそぐものではないと同様。それは、その場を支配する中宮定子の微笑みと眼差しの下で、これらの戯言が上演されているからである。
 おしなべて子規のピューリタン的近代主義は、戯れと本気、真実と虚構の峻別に重きを置き過ぎており、そのために「真実でない」という批判になりがちだ。

心あてに見し白雲はふもとにて 思はぬ空に晴るる富士の嶺
(白雲に隠れていたので、きっと山頂はあのあたりだろうと予測していた所は、予想に反してほんのふもとにすぎず、実際に晴れてみれば思はぬ高さにそびえていた富士の山頂であったよ)

子規は「麓といふ語いかがや、心あてに見し所は少なくとも半腹くらいの高さなるべきを、それを麓といふべきや疑はしく候」と言う(p−20)。しかしこれとても、実際に富士を見て感動している必要はない。文学の中で言い継がれている富士山ということにすぎず、その威容をどういう趣向で詠むかを競っているにすぎない。これは、伝統によって制約された一種のゲームのようなものである。
 子規の言うように、それらすべてを取り去っても、歌は芸術作品として自立できるのだろうか? 自立できるような優れた歌もあるかもしれないが、そうでなければ歌ではないというのは、いかにも偏狭なピューリタン主義にすぎない。何より、そんな心がけでは、多くの秀歌の価値を理解できない。それでは本末転倒というものだ。かくて我々は、子規の積極的主張の大部分は薄弱な根拠に基づくものとして破棄せざるを得ない。
 しかしそれでも、子規が示した批評精神こそは、近代文学の、いな近代芸術の批評的性格の範型を示しているのである。それは、万葉という古典を根拠にして新たな批評の規準を創り出したが、その子規を批判する者も、古典的テクストの新たな解釈を打ち出すことによって、子規の批評を乗り越えようとするしかない。こうして常に新たな古典の再解釈を批評は打ち出し続けるのだ。ここに、大部分は的外れであったにもかかわらず、子規の批評の根本的な正しさがある。我々の批評も、結局は子規の批評の精神を反復するだけなのだから。
 かかる批評的活動こそが、逆説的にも芸術という統一的ジャンルを生み出すことになる。なぜなら批評は絶えずその活動を通じて、古典的作品群を一つの統一体としてひとくくりにせざるを得ないからである。それゆえ、もともとはそれらが生まれた当初は、互いに激しく闘争しあい否定しあいながら不倶戴天の敵として存在していた者たちが、後世の批評からは一つの統一された殿堂に居並ぶものになるのである。



easter1916 at 20:03│Comments(0) 哲学ノート 

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