世界にユダヤ人が指導している国が二つある。一つはイスラエルであり、もう一つはウクライナである。


ウクライナのヴォロディミル・ゼレンスキー大統領はユダヤ人である。そのゼレンスキー大統領がネットを通じて各国の政治家に直接にウクライナへの支援を訴えている。アメリカ、欧州連合、ドイツ、スイス、カナダ、日本などの議会に向けて演説を行った。それぞれの国の事情に合わせた内容で、感情を揺さぶるような語り口で強い印象を与えた。その中でも注目を集めたのはイスラエル向けの3月20日の10分ほどの演説だった。というのは、ユダヤ人からユダヤ人が多数派の国に向けてのメッセージだったからだ。


その内容に入る前に、ウクライナ情勢に対するイスラエルの政策を見ておこう。端的にいって玉虫色である。ロシアにもウクライナにも良い顔をしたいという姿勢である。具体的にはロシアのウクライナ侵攻への批判は控え目であるし、同国に対する制裁にも消極的である。また、ウクライナに対しては医療面など人道支援には動いているが、欧米諸国の多くとは違い、兵器の供与は行っていない。イスラエルはなぜ、立場を明確にしないのだろうか。


イスラエルのベネット首相は、ロシアとウクライナの間の調停役を買ってでている。そのためには、双方との良好な関係の維持が不可欠だとの主張である。たしかにイスラエルは、両国と深い人的なつながりを有している。というのは冷戦の末期以来、旧ソ連からの約100万人のユダヤ人を移民として受け入れたからだ。その大半は現在のロシアとウクライナからである。イスラエルの人口の15パーセントはロシア語の話者だし、政治家にも旧ソ連出身者は少なくない。ベネット首相はロシアのプーチン大統領と会談したりゼレンスキー大統領と電話したりと外交努力をつづけている。


だが、それは建前に過ぎず、イスラエルが中立的な主張をしている本当の理由は別にあるとの見方が一般的である。本当の理由は中東でのロシアの反発を懸念しているからだ。


具体的にはシリアの問題がある。2015年にロシアがシリアのアサド政権を支援して内戦に介入した。それ以来、この国の制空権はロシア空軍が押さえている。陸上では、やはりアサド政権側に立ってレバノンのヘズボッラーなど世界各地のシーア派の軍事組織が介入している。背後で、こうした組織を操っているのはイランの革命防衛隊である。イスラエルは北の隣国シリアに敵対するイランの影響力が浸透してくるのを恐れている。そのためイスラエル空軍は、シリア国内のイラン関連の施設を大規模に爆撃してきた。


こうしたイスラエル空軍の活動が可能なのは、ロシアの了解があるからだ。もしイスラエルがウクライナ情勢でロシアを批判すれば、シリアでのイスラエル軍の自由な軍事行動をロシアは許さなくなるだろう。これが、イスラエルがロシアを批判しない理由だ。


さて、それではゼレンスキー大統領は、そのイスラエルの指導層向けに、どのような内容を語ったのだろうか。


3月20日の演説では、まず1960年代から70年代にかけてイスラエルの首相だったゴルダ・メイアの言葉を引用して説き始めた。メイアはウクライナの首都キエフ(キーウ)出身だ。その言葉とは、周辺のアラブ諸国との関係の険しさに言及した「隣人が自分たちの死を望んでいる時に譲歩は難しい」だった。そして次のように議論を進めた。


ヒトラーがユダヤ人問題の虐殺による「最終的解決」をめざしたように、プーチン大統領はウクライナを消滅させようとしている。なぜ、イスラエルは中立を装ってウクライナを助けないのか。善と悪との間には調停など不可能である。


この「なぜ」という問いかけの答えを選ぶのはイスラエルである。その答えとイスラエルは向かい合うことになろう。激しくきびしく鋭くイスラエルの政策を批判した。イスラエル人の心理の奥底にまで突き刺さるような言葉であった。ユダヤ人からユダヤ人へのメッセージだった。


-了-


※『まなぶ』(2022年5月号)40~41ページに掲載されたエッセイです。
出版元の了承を得てブログにアップします。