イランという預言者の墓場


当時の日本でイラン情勢を的確に見通した人を知らない。たとえば既に見たように大規模なデモの日にテヘランでの首脳会談を設定した日本の外務省はシャーが倒れるなど夢にも思っていなかった。イランに長年勤務した外交官が、「自分が一番イランを知っているつもりだったが、革命が来るのが分からなかった。恥ずかしいよ」と告白するのを聞いたことがある。イラン情勢が読めてなかったのは日本ばかりではなかった。その前の週には中国の華国鋒主席がテヘランを訪問している。これは、「治安当局に殺害された殉教者の遺体を踏みつけに来た」と革命勢力に批判された。後に華国鋒はホメイニーに謝罪の書簡を送る羽目となった。日中ともにイランでは苦労したわけだ。


学界の状況も一部を除いては心もとなかった。たとえば岩波書店の総合誌『世界』が、一九八二年三月号でイランの特集を組んでいる。その特集のタイトルが何と「激動のアラブ世界」だった。イランはアラブではない。ペルシアである。日本に関する特集号に激動の中国というタイトルを付けるようなものである。こんな基本の基礎が分かっていない編集者が、全く知識のない庶民に知識を賜るという構図である。とんでもないを通り過ごして悲劇である。もしかしたら喜劇だったのだろうか。


この特集は、ほんの一例に過ぎない。当時のイラン関係の出版物の多くが、こうしたレベルであった。ペルシアとアラブの区別がついていれば上出来の部類だった。この『白と黒の革命』という作品は、当時のメディア報道や学界の研究を踏まえての著作であった。いかに広く深く知識を求めたとしても、その知識そのものの質に問題があった。玉石混交であり、しかも石が大半であり、玉は稀であった。


革命以来、イラン情勢を多くが読み誤ってきた。いわく、シャーの体制は盤石である。革命政権は短命である。イラン・イラク戦争は短期で終わる。イランは敗れる。など振り返るとイランは預言者の墓場だ。自戒の念を込めて強調しよう。この国は読みにくい。革命時には、そうした認識すら希薄であった。


当時の日本のイラン研究や報道が頼りにならなかったとすれば、その水準以上の議論は小説には望むべくもない。この作品が映し出すのは、革命当時の日本人のイラン情勢を理解しようとする苦闘の姿である。


-了-