6月末に梅雨明け宣言が出て、今年の夏は早くやってきた。しかも熱いくらいに暑い。救いは、去年と違いオリンピックを開催するかどうかという騒ぎがない点だろうか。このオリンピックというのは、人間の体力の限界を競う場面である。そして、その勝者にメダルが送られる。スポーツ選手にとっては4年に1度の大舞台である。


さて、体力ではなく知力を表彰する賞といえば、ノーベル賞が知られている。この賞は、毎年、各分野で優れた業績の方々に送られる。1人でオリンピックのメダルとノーベル賞を与えられた人物は、これまでには存在しない。だが親子でなら、その両方で表彰される可能性のある家族がいる。しかも、かなり高い確率で。どの家族だろうか。


注目されているのは、母親のカタリン・カリコと長女のスーザン・フランシア・カリコである。カタリン・カリコは、mRNAの研究で知られる。mRNAのmは「メッセンジャー」であり、RNAは「リボ核酸」である。合わせると「メッセンジャーリボ核酸」という意味になる。mRNAというのは生物の体内の細胞に、どのような新たな物質をつくるのかという指示を与える役割を果たしている。適切なmRNAを体内に送り込めば、細胞が必要な物質をみずからつくりだす。つまり、細胞を薬工場に変える。ただ、mRNAは不安定であり、体内に送り込まれても短時間で壊れてしまう。どうやってmRNAを体内で安定させるかという課題があった。


この安定化の手法の研究でカリコは世界から注目された。そして、この技術が新型コロナウイルス対応のワクチンの開発で活用された。世界で一番広く使われているのは、アメリカのファイザー社とモデルナ社のワクチンである。この両社ともにがカリコの手法を使ってワクチンを製造している。カリコがノーベル賞の有力候補とされている理由である。


ファイザーのワクチンの場合には、研究開発を主導したのは提携企業のドイツのバイオンテック社だ。なので、正確にはファイザーのワクチンではなく、ファイザー・バイオンテックのワクチンである。


じつはカリコは、このバイオンテック社の副社長でもある。バイオンテック社はトルコ系移民の立ち上げた企業である。そのカリコは、ハンガリー生まれだ。よりよい研究の機会を求めてアメリカへ移住した。移住先での当面の生活費を何とかかき集め、それを外貨に換えた。ハンガリーを離れる際に、その虎の子のお金を娘の熊のぬいぐるみに隠して税関を抜けて出国したというエピソードが伝えられている。ペンシルバニア大学でmRNAの研究をつづけ、多くの困難を克服して先の研究成果をあげた。


その娘がスーザン・フランシア・カリコである。母が研究していたペンシルバニア大学で学び、在学中にボート競技を始めた。そして2008年のロンドンと12年の北京オリンピックにボート競技のアメリカ代表チームの一員として参加し、それぞれの大会で金メダルを獲得している。このスーザンこそ、外貨を隠したぬいぐるみを持っていた女の子である。もし、カタリン・カリコがmRNAの研究でノーベル賞を受賞すれば、この母子はノーベル賞と金メダルの親子になるだろう。


この親子の象徴しているのは、アメリカという社会の活力の源泉である。それは、移民や難民という外国ルーツの人々のがんばりである。国境を越えて新たな生活を切り開こうとするのであるから、移民や難民は、そもそもがんばり屋が多い。そして、なんの地盤もないところから生活を始める場合が大半であるから、働き過ぎるくらい働く傾向が強い。がんばり屋が、さらにがんばるわけである。


このエネルギーがアメリカという国を動かしてきた。世界の先進工業諸国の中で、一番多く移民を受け入れている国がアメリカである。二番はドイツである。両国の製薬会社が新型コロナウイルス対応ワクチンの開発で先頭を切ったのは、偶然ではないだろう。


-了-


※出版元の了承を得て以下の拙文をアップします。
「キャラバンサライ(128回)金メダルとノーベル賞の親子」
『まなぶ』(2022年8月号)38~39ページ