「壊れても修理して使う」アンティーク時計の価値

雑誌Wedge12月号に掲載された拙稿です。Wedge Infinityにも掲載されました。ぜひご一読ください。オリジナルページ→

https://wedge.ismedia.jp/articles/-/21595

 

Wedge (ウェッジ) 2020年 12月号 [雑誌]

Wedge (ウェッジ) 2020年 12月号 [雑誌]

 

 

 1950年代は腕時計の技術が完成した黄金期。買ったら一生使う。壊れたら修理し、孫子の代まで使う。そういう時代背景の中で作られたモノなのです」

 アンティーク時計を専門に扱う「ケアーズ」を川瀬友和さんが立ち上げたのは、今から30年前。クオーツ(電池式)時計が全盛の頃で、機械式の時計は「時代遅れ」としてかえりみられることがなかった。そんなアンティーク時計にのめり込んだのは、「壊れたら新しいモノに買い替えていけばよいという考えが、どうしても嫌でたまらなかった」からだと振り返る。

きっかけは父親の時計

 東京都江東区森下に本社を置く「ケアーズ」は、六本木の東京ミッドタウン表参道ヒルズに店舗を持つ。古いものを大切にする文化がある米国やドイツに買い付けに行き、自社の工房で修理・整備して店頭に並べる。

 1本10万円前後の「入門編」から1000万円を超す名品まで。マニアだけでなく、古いモノに価値を見出す人たちに着実に支持されてきた。

 川瀬さんと時計の出会いは中学生の頃。父親から、永年勤続の記念品だったセイコーの「スポーツマチック」をもらった。裏ぶたを開け、構造を調べ、分解するうちに、機械式時計のメカニズムにハマっていった。ちなみに「スポーツマチック・ファイブ」は1963年に売り出されて世界的な大ヒット商品となり、日本の「セイコー」の名前を一躍世界に知らしめた時計だ。

 体育大学を卒業後、水泳のインストラクターをしていたが、機械式の時計集めに熱中する。時間がずれないクオーツが主流になった当時、町の時計店では手巻きの腕時計が埃をかぶっていた。半ば見捨てられて不良在庫と化した国産時計を、定価の5分の1、数千円で譲ってくれる店も多かった。休みのたびに川瀬さんは時計店を回った。

 そんなある日、日本フリーマーケット協会が、渋谷のNHK前広場で開いた「フリーマーケット」に出会う。米国伝来の新しい風俗に魅せられた川瀬さんは、集めてきた時計を並べる店を出してみることにした。すると思いのほかよく売れるではないか。

「自分と同じように古いモノに価値を見出す人たちがいる」

 川瀬さんは、インストラクターの合間に出店を繰り返した。フリーマーケットで知り合った友人が東京・中野の商店街「ブロードウェイ」に雑貨店を出したので、そこにも時計を並べてもらった。アンティーク時計が安定的に売れるようになった。

 「本物のフリーマーケットを見たい」

 当時、そんな一心でカリフォルニアを旅した。英語もできず、レンタカーの借り方さえ知らない中で、アンティーク時計の世界で有名だったフリーマーケットに何とかたどり着いた。

 「本当にカルチャーショックでした」と川瀬さんは振り返る。その旅がきっかけとなって、アンティーク時計を扱う商売が徐々に「副業」から「本業」になっていった。

 米国のアンティーク時計市などで買い付けると、どうしても修理や整備の知識が必要になる。当時の日本の時計店には分解修理ができる腕を持った職人が必ずと言ってよいほどいたが、弟子入りを乞うても相手にされない。技術を身につけるのに、30歳を過ぎた年齢では遅すぎる、というのだ。

 ところが、米国で時計職人に修理の技術を教えてほしいと頼むと、喜んで伝授してくれた。日本と米国のカルチャーの違いを痛感した。川瀬さんはそうやって修理の技術を身につけた。

 メカニズムに興味があった川瀬さんは、当時から、時計を買う時には部品も同時に購入してきた。修理をするには部品が必要になることが少なくないが、製造当時の部品はなかなか手に入らない。補修の部品を新しく作ることもあるが、同型の時計を分解して部品だけを取り出して使うことも多い。

 そうした部品を取り出すための半ば壊れた時計や部品は、当時は二足三文で買えた。機械式の時計が価値の高いものとして世界的にも見直される日が必ず来ると川瀬さんは信じたのだろう。「今ではそれが宝の山になっています」と川瀬さんは笑う。

 会社を設立したのは89年。いわゆる「バブル」真っただ中の時だ。安くて良いモノを大量に使い捨ててきた高度経済成長期を通り抜け、「高くても良いモノ」を買う余裕が日本人にも生まれたタイミングだった。

 当時の高級品ブームに乗って、スイス製のロレックスが人気を博した。ロレックスの「デイトナ」は定番クロノグラフとして高い知名度と圧倒的な人気を誇った。今でも新モデルが販売されているが、川瀬さんは「70年代の手巻きで少し小さめのサイズのモデルはすごく格好いいが、コストがかかりすぎてもう作れるメーカーはなかなかいないのではないか」という。新製品のロレックスが売れるとともに、ロレックス製のアンティークにも注目が集まった。

 会社は順調に成長を続け、今では従業員30人の会社となった。分解修理やオーバーホールに当たる技術者も8人。しかも若手が育ってきた。

成熟した国に集まる時計

 そんな「ケアーズ」では70年代半ば以降の時計はほとんど扱わない。当時の時計メーカーは、クオーツに対抗して機能性を重視する一方、コストを下げるために駆動部分のムーブメントを外注したり、他社製品にブランド名だけを付けるOEM生産が急拡大した。「この時代の時計は、おそらく100年たってもアンティークとしての価値は生まれない」と川瀬さん。本物を求めた時代に作られた本物だけが価値を持ち続けるということだ。

 川瀬さんが懸念しているのが、古いモノに価値を見出す「文化」が若い人たちに受け継がれるかどうか。バブル期にアンティーク時計に目覚めた世代が高齢になり、大事にしてきた愛品を手放す相談が増えている。若者が徐々に貧しくなっていると言われる中で、父から子へ、そして孫へと代々受け継がれるべきアンティーク時計が行き場を失っていくのではないか。

 アンティーク時計の世界では米国とドイツに大きな市場がある。「文化的に成熟した豊かな国にアンティーク時計は集まるんです」と川瀬さんは語る。

 経済が急成長している中国の消費者は、まだまだ最先端の新製品に価値を置き、アンティーク市場では存在感がない、という。果たして日本はどうなっていくのか。古いモノに価値を見出し、それを生活の中で楽しむ「余裕」を持ち続けられるのか。アンティーク時計を修理し、価値を吹き込み続ける川瀬さんの取り組みは続く。