だいずせんせいの持続性学入門

自立した持続可能な地域社会をつくるための対話の広場

「パンのための」戦争

2020-08-09 14:15:37 | Weblog

「ナチスは、主観的には子どもたちのパンのために戦争を仕掛けた。二度と子どもを飢えさせないために、囚人の特殊部隊の手で大量のユダヤ人や政治犯の死体をフォーディズム的様式で大量生産することをナチスは選んだ。この暴力感覚は、大戦期の憎悪の報復合戦のなかで産声をあげ、いまなお現代社会を霧のように覆っている。霧の向こう側で、人々は飢えている。こちら側では、広告料で外皮の肥大した食べものを謳歌し、その贖罪としての、ロハスやらオーガニックやらシェクイクやらに踊らされながら、『食べものっていのちの根源ですよね』と語り合う。こんな社会が、視界ゼロの極楽に到来するのもそう遠くないだろう。」 藤原辰史『カブラの冬—第一次世界大戦期ドイツの飢饉と民衆』(人文書院、2011年)、p.150

 

 毎年この時期になると太平洋戦争/第2次世界大戦についてメディアで話題になる。中国との戦争が泥沼化していながら、アメリカ・イギリスを相手に太平洋全域を戦線とするような無謀な戦争を日本は「なぜ」起こしたのか、について私はずっと疑問に思い勉強を続けてきた。その回答がおぼろげながら見えてきたのちに立ち現れてきた疑問は、ヨーロッパの戦争についてである。そもそもどういう戦争が行われたのか。それはどのような悲劇だったのか。そしてなぜその悲劇は引き起こされたのか。

 第2次世界大戦のヨーロッパの戦争の中心は独ソ戦である。それがどのようなものだったのか私はまるで知らなかった。今回、最近ロシアでテレビ放映された長編ドキュメンタリー「大祖国戦争」をネットで見てその概要を把握し、大木毅『独ソ戦—絶滅戦争の惨禍』(岩波書店、2019年)でその実態を垣間見た。

 そこで描かれていたものは、およそ近代国家間の戦争とは思えない残虐で凄惨なものだった。まるでヨーロッパ中世の戦争だ。中世には王侯貴族も都市国家も果てはローマの法王庁まで戦争に明け暮れていた。その戦争に負けたが最後、すべてのものは略奪され、働ける者は捕虜も市民も奴隷となって連れ去られ、それ以外は女性・子どもを含めて虐殺された。銃後の市民も含めて「勝利か死か」であった。それが近代に入り、1864年ジュネーブ条約、1899年のハーグ陸戦条約などにより、民間人への攻撃の禁止、捕虜虐待の禁止などが定められた。

 独ソ戦ではそれらは守られなかった。ドイツ軍は1941年9月にレニングラードを包囲した。それから900日、この都市を表糧攻めにして飢餓を発生させ、その結果100万人以上とも言われる市民の犠牲者が出た。戦闘で降伏した捕虜はドイツ本国に連行されて軍需工場で強制労働をさせられた。ウクライナの首都キエフを占領して軍政をしくと、ユダヤ人の虐殺が始まった。郊外に連行してそこで金品を没収した上で殺害し大きな溝に埋めた。その後ユダヤ人だけでなく、それ以外の民族の市民にも虐殺の手が及んだ。ソ連軍の攻勢が始まると、敗走するドイツ軍は占領地のすべてにおいて建物を破壊し焼き尽くし、家畜を収奪し市民を強制労働させるために強制移送させながら退却した。そこで多くの市民が犠牲となった。

 攻勢に転じたソ連軍は捕虜にしたドイツ兵を後方に送り強制労働させた。そこでたくさんの捕虜が死んだ。ソ連軍がドイツ国内に侵攻すると公然と略奪が行われ、市民に対する暴行が横行した。

 独ソ戦は戦略的な目的を達成するという近代的な戦争の概念を逸脱した、相互に相手を「絶滅」させるための戦争であった。

 現代の私たちの目から見ると、ヒトラーに率いられたナチス党の政策は狂っているとしか思えなのであるが、ヒトラーが権力を手に入れることができたのはドイツ国民の圧倒的な支持があったからである。なぜ人々はヒトラーを支持したのか。これが私にとってヨーロッパの戦争についての最大の「なぜ」である。

 その回答の一端が第1次世界大戦にあった。これも私は知らなかったのだが、この戦争でイギリスは強大な海軍力を海戦にではなく、商船の拿捕に利用しドイツを海上封鎖した。食料の輸入の途絶えたドイツ国内では大規模な飢餓が発生、75万人もの餓死者が出たという。国内では暴動が相次ぎ、反政府的な政治運動が高揚して帝政ドイツは崩壊、ドイツは敗戦した。

 戦後に生まれたヴァイマール共和国。さまざな政治勢力が台頭する中で世界恐慌が起きる。「世界恐慌により再び飢餓の恐怖が人々を襲った瞬間に、・・・ナチスは、このような不信の束を・・・つまり人種の問題(ドイツ人のユダヤ人に対する不信)として、しかも、しばしば忘れがちな大戦の犠牲者である女性や子どもをターゲットにして説明しつづけた。日々の生活苦を階級問題としてしか説明できなかった共産党よりも多数の支持者を獲得し、世界恐慌からの脱出口をドイツ国民に提示したのである。」(『カブラの冬』、p.141)

 そのプランは第2次大戦中の独ソ戦開戦前にまとめられた「東部総合計画」で完成する。そこではポーランド、バルト三国、ソ連西部地域の住民3,100万人をシベリアに追放し、ドイツ人の入植地とする。残りのゲルマン人以外の住民1,400万人は入植地での奴隷労働に従事させ、ドイツの食糧自給圏を確立するというものだった。この構想に沿ってナチスは「二度と子どもを飢えさせないために」独ソ戦を開始し「絶滅戦争」が戦われたのである。

 第2次世界大戦は、アジア・太平洋の戦争でもヨーロッパの戦争でも、銃後の市民に対する無差別な攻撃・殺戮で特徴付けられる。アジア・太平洋では、中国における日本軍のいわゆる「三光(殺し尽くし・焼き尽くし・奪い尽くす)作戦」、アメリカ軍による日本や台湾の都市への無差別爆撃、そして広島、長崎への原爆投下。そのような重大な戦時国際法違反は、日本軍による重慶に対する無差別爆撃から始まったのかと私は思っていたが、実はそのずっと前、第一次大戦のイギリスによるドイツ海上封鎖から始まっていた。

 私たちの世代は、日本の戦後の食糧難の時代の物語を繰り返し聞かされて育った。その艱難辛苦はおよそ経験したものしかわからないと思うけれども、それでも日本では大規模に餓死者は出てはいない。戦勝国アメリカからの緊急食糧援助があったのも助けになっただろう。それに対して第1次大戦でのドイツの餓死者75万人、第2次大戦でのレニングラードでの死者100万人以上というのはまったく想像を絶する。

 実際にこのような出来事があったということに卒然とする。そして翻ってみれば、現代においても紛争のたびに飢餓が発生し、子どもたちが真っ先に犠牲になっている。私たちはすでに「視界ゼロの極楽」にいることを自覚しなければならない。

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