コロナ騒動は、政府がマスコミにあおられてゼロリスクを求めた点では福島第一原発事故と似ているが、違う点も多い。最大の違いは、専門家会議を初めとする専門家が当てにならなかったことだ。
福島のときは原子力の専門家の意見は一致しており、あの程度の事故で死傷者は出ないとみていたが、専門知識のない活動家が民主党政権を乗っ取って大混乱になった。それに対して今回は感染症の専門家の中でも、大したことないという意見と感染爆発が起こるという意見が対立した。
福島で騒いだ「放射脳」はトンデモの類で原子力の専門家はほとんどいなかったが、今回騒いだ「コロナ脳」には専門家もいた。特に医療クラスタ(医クラ)が、こんな感じで私にもからんできた。
この予想に従えば、5月28日に日本のコロナ死者は3万5000人になっていたはずだが、6月24日現在でも967人。このようにわかりやすい無知蒙昧は大した問題ではない。よくあるのは「何もしなかったら42万人死ぬ」という予測は何かした場合のデータで否定できないという話だ。
これは論理的には正しい。「何もしなかったら42万人死ぬ」という命題の対偶は「42万人死なないのは何かしたときだ」という命題なので、感染症対策をとった日本ではつねに真である。仮定が偽の命題は、どんな結論も真なのだ。
同じく「何もしなかったら100万人死ぬ」も「何もしなかったら日本人は全部死ぬ」も真だから、この予言は事実で反証できない。このように素人だけでなく専門家にとっても、理論は事実で変えられないのだ。
これは当時の主流だった論理実証主義が「仮説→演繹→実証」という単純なサイクルで科学の理論が発展すると考えていたのを批判したものだ。ポパーによれば、科学の理論を科学的たらしめるのは、それが検証できるかどうかではなく経験的事実で反証できるかどうかである。
しかしこの理論にも弱点があった。たとえば地動説に対する反証として当時の天文学者があげたのは、「弓を真上に射たら、地球が回転していたら別の場所に落ちるはずだ」ということだった。コペルニクスもガリレオも、これには答えられなかった。それが解決したのは、ニュートンが慣性の法則を発見したときである。
このように素人だけでなく専門家にとっても、理論は事実で変えられない。実証主義というのは、人々が思っているほど自明の原理ではないのだ。それを指摘したのがトマス・クーンの『科学革命の構造』だった。ここでは正しい理論と誤った理論の区別はなく、特定のパラダイムの中でのみ理論は検証/反証される。
たとえばマイケルソン=モーリーの実験でエーテル説は反証されたが、それによってニュートン力学が放棄されたわけではない。アインシュタインが相対論でそれを説明するまで、人々はニュートン力学を信じていた。一つの学説から別の学説に変わるのは、少ない仮説ですっきり説明できるからで、どっちかが絶対的に正しいわけではない。
西浦モデルを信じる人々は、どこまで行っても「何もしなかったら」といった補助仮説を持ち出して信仰を守る。これは天動説も惑星の運動という補助仮説を加えると反証できないの同じで、科学と宗教に本質的な区別はない。パラダイムは一つの信仰なのだ。
福島のときは原子力の専門家の意見は一致しており、あの程度の事故で死傷者は出ないとみていたが、専門知識のない活動家が民主党政権を乗っ取って大混乱になった。それに対して今回は感染症の専門家の中でも、大したことないという意見と感染爆発が起こるという意見が対立した。
福島で騒いだ「放射脳」はトンデモの類で原子力の専門家はほとんどいなかったが、今回騒いだ「コロナ脳」には専門家もいた。特に医療クラスタ(医クラ)が、こんな感じで私にもからんできた。
この予想に従えば、5月28日に日本のコロナ死者は3万5000人になっていたはずだが、6月24日現在でも967人。このようにわかりやすい無知蒙昧は大した問題ではない。よくあるのは「何もしなかったら42万人死ぬ」という予測は何かした場合のデータで否定できないという話だ。
これは論理的には正しい。「何もしなかったら42万人死ぬ」という命題の対偶は「42万人死なないのは何かしたときだ」という命題なので、感染症対策をとった日本ではつねに真である。仮定が偽の命題は、どんな結論も真なのだ。
同じく「何もしなかったら100万人死ぬ」も「何もしなかったら日本人は全部死ぬ」も真だから、この予言は事実で反証できない。このように素人だけでなく専門家にとっても、理論は事実で変えられないのだ。
理論は事実ではなく「信仰」で決まる
この場合、西浦モデルは検証されたことになるだろうか。これは1950年代に大論争になったテーマで、このように事実で反証できない命題は科学ではない、というのがポパーの反証可能性理論である。これは当時の主流だった論理実証主義が「仮説→演繹→実証」という単純なサイクルで科学の理論が発展すると考えていたのを批判したものだ。ポパーによれば、科学の理論を科学的たらしめるのは、それが検証できるかどうかではなく経験的事実で反証できるかどうかである。
しかしこの理論にも弱点があった。たとえば地動説に対する反証として当時の天文学者があげたのは、「弓を真上に射たら、地球が回転していたら別の場所に落ちるはずだ」ということだった。コペルニクスもガリレオも、これには答えられなかった。それが解決したのは、ニュートンが慣性の法則を発見したときである。
このように素人だけでなく専門家にとっても、理論は事実で変えられない。実証主義というのは、人々が思っているほど自明の原理ではないのだ。それを指摘したのがトマス・クーンの『科学革命の構造』だった。ここでは正しい理論と誤った理論の区別はなく、特定のパラダイムの中でのみ理論は検証/反証される。
たとえばマイケルソン=モーリーの実験でエーテル説は反証されたが、それによってニュートン力学が放棄されたわけではない。アインシュタインが相対論でそれを説明するまで、人々はニュートン力学を信じていた。一つの学説から別の学説に変わるのは、少ない仮説ですっきり説明できるからで、どっちかが絶対的に正しいわけではない。
西浦モデルを信じる人々は、どこまで行っても「何もしなかったら」といった補助仮説を持ち出して信仰を守る。これは天動説も惑星の運動という補助仮説を加えると反証できないの同じで、科学と宗教に本質的な区別はない。パラダイムは一つの信仰なのだ。