だいずせんせいの持続性学入門

自立した持続可能な地域社会をつくるための対話の広場

錦二丁目

2022-09-01 12:01:49 | Weblog

 名古屋市錦二丁目を学生たちと訪問。錦二丁目エリアマネジメント株式会社が最近オープンさせた喫茶七番/スペース七番を訪問し、まちづくりについて代表の名畑恵さんから詳しくお話を聞いた。錦二丁目は名古屋駅と中心地の栄をつなぐ街のど真ん中で、戦後は繊維問屋街として栄えた。戦後の高度経済成長を支えたのが繊維産業で、愛知県内では「ガチャマン景気」と呼ばれる好景気が続いた。機械が一回ガチャンと動くと「一万円」という話で、たいそう豪勢な話だ。その生産物を国内のみならず世界に届けたのが錦二丁目の問屋街だ。「長者町繊維街」というこれも豪勢な呼び名がついた街でもある。

 真四角の街区が4×4の16街区、碁盤の目に切られた道路でつながった街に、かつては300社以上の繊維問屋があった。小さなビルがびっしり並び、1階は店舗やオフィス、2、3階に経営者の家族が暮らした。街区の真ん中にはすっぽりと空いたスペースがあり、江戸時代から続く神社や寺があった。このいわば町の共有スペースを会所といい、四方から路地を通っていくことができた。

 高度成長も後半に入ると日本の繊維産業は衰退期に入る。息の根を止めたのが1985年のプラザ合意だ。円高が進み、輸出は大打撃を受ける。かわって中国の安い衣類が大量に輸入されるようになってきた。倒産、廃業する事業者が続出し、現在でも営業しているのは50社だという。また営業している問屋の経営者は環境のよい郊外に家を構えて、自分のビルに通勤するようになった。そうやって人口も激減し、ごく最近まで人口は400人ほどで子どもがほとんどいない「限界集落」だった。街は空洞化し、老朽化してくたびれたビルがならぶ街になった。私が大学入学で名古屋に来てからもう40年になるが、その頃はお隣の錦三丁目が歓楽街として賑やかなのに比べて、二丁目は特に何もなく、夜は真っ暗で寂しい街という印象だった。

 その街の再生が始まったのは、2004年に錦二丁目まちづくり連絡協議会が発足してからだ。まちづくりの中心を担うのは、繊維問屋の旦那衆だ。その多くはここに住んではいないが、ビルのオーナーで地権者たちだ。この街に思い入れがあり、なんとかしようと立ち上がった。設立総会には都市計画が専門の延藤安弘先生が呼ばれ、2008年にはまちづくり拠点「まちの会所」がオープンし、本格的な動きが始まった。他にも都市計画の研究者らよそ者のサポーターも集まり、将来の街の姿を「錦二丁目マスタープラン」としてまとめた。住民合意としてマスタープランが認知されたのが2011年。それ以降はこの計画を実現するための取り組みが始まった。

 私自身が少し関わったのが都市の木質化プロジェクトだ。街区を魅力あるものにするにあたって、近隣の山村の材木を活用して木だらけの街にしようというものだ。豊田市の山村とつながり、豊田森林組合から提供されたスギ、ヒノキなどの木材を使ったベンチやオープンスペースが街のあちこちに作られた。これは街の人たちとよそ者の参加者がDIYで作ったものだ。昼休みになると近くのオフィスビルの会社員たちが、木のベンチに座ってお弁当を広げる光景が日常になった。また広すぎる道路の歩道を広げて歩いて暮らしやすい街にするための社会実験を行い、その時には角材を並べた歩道を作ったりした。コンクリートだらけの街の表情が、やわらかく温かみを感じられるものになった。山側からすれば、街中で大量に山の木を活用してもらえれば、森と山村が再生する。街と山の地域づくりが連携してそれぞれの課題を解決しようとする先進的な取り組みだ。

 国際的なアートイベントである、あいちトリエンナーレの会場になったことも良いきっかけになった。多様なよそ者たちが街に集まるようになり、アートの感覚が街を彩るようになった。

 2018年に錦二丁目エリアマネジメント株式会社が立ち上がる。街の住民組織がビルの一階部分だとすると、そこに乗っかる二階部分の会社だ。株主は6つある町内会、繊維組合、再開発組合そしてまちづくり協議会だ。マスタープラン実現の実行部隊となり、利益を地域に還元する会社だ。

 わざわざ株式会社を作った背景には、7番街区での再開発事業があった。民間デベロッパーが高層マンションを建設するという事業で、放っておけば、地域とは何も関わらない事業となり、入居者も地域とは関わらないことになりかねない。むしろこれをチャンスとして地域を盛り上げたい。そこで、計画段階の初期からデベロッパーと話し合いを進め、ビルの低層部分に街づくりの拠点を作ることになった。具体的には住民の交流拠点となる喫茶店とコミュニティスペースを持ち、さらにビルの店舗スペースの床の一部を購入して、街づくりの理念に沿うお店に入ってもらうことになった。そのためには金融機関から融資を受けることも必要で、これらの事業を進めるためには株式会社でないとうまく進まないということだ。

 その代表取締役に抜擢されたのが、名畑さんだ。彼女は大学生の頃に「おもしろそうだから」という軽い気持ちで、錦二丁目のまちづくりの活動にボランティアとして参加、その後延藤先生の「一番弟子」としてずっと錦二丁目に関わってきた。延藤先生が亡くなられてからは、その役回りを引き継いだ形だ。しかし株式会社の代表取締役となると話は違う。誰を代表にするかというときに、利害関係が複雑に絡む事業であり、地元の人では誰がなってもどこかから不満が出そうだ。そこで、地元のしがらみや過去の経緯とは比較的関係ない、「無色」の名畑さんに白刃の矢がたったというわけだ。

 名畑さんは「夢みる少女」がそのまま大人になったような、ほんわかとした雰囲気の人だ。しかし、事業立ち上げにはそうも言っていられないと、エネルギッシュに動かれている。ご本人は慣れない役回りで大変だと思うが、それでもほんわかした雰囲気は変わらず、その魅力が多様な人たちが集まってくる求心力になっていると思う。

 今年、高層マンションは完成。続々と入居者が入り始めた。人口が一気に何倍にもなる。入居者が地域と良い関係を結べるようにすることも大きな課題だ。マンションの1階の角にできた喫茶7番の目の前は屋根のある空き地。そこに向かって四方から路地が伸びて合流する。つまり江戸時代に作られた街区の基本である路地と真ん中の会所を再現した形だ。喫茶店はカウンターを空き地に張り出して、季節の良い時期なら空き地のベンチで過ごすこともできる。空き地にはキッチンカーが入ってきて彩りを添える。喫茶店の中には、幅が広い木の長椅子を設置。オープンするとねらい通り、若いお母さんたちが小さな子どもを連れてそのスペースで遊ばせている。

 私も何度か喫茶店に入ってコーヒーを飲んだりランチを食べたりしたが、なぜか、その度に知った顔の誰かに会う。思いもよらぬ懐かしい出会いがあったりした。つまり、これが会所ということだ。この地に縁もゆかりもない私でさえそうなのだから、地元の人だったら格好の「たまり場」になるだろう。マンションに新しく入居した人たちも気軽に使えて、地元の人と顔なじみになることができればとても良いと思う。

 昔は田舎でも「会所」があった。地元の小さな商店だ。昼間の仕事が終わると皆そこに立ち寄って、コップ酒を一杯飲んでよもやま話に花を咲かせた。そこで地域の人たちの消息は全て共有されたし、最近顔を見ないとなれば、みんなで心配もした。もちろんそういう濃ゆい関係がわずらわしいということにもなったのだが、それにしても、田舎でも都会でも、そういう場所があまりになくなりすぎたと思う。

 もう20年以上も前の話だが、地質調査でカナダの北極圏の入り口の町、イエローナイフに滞在したことがある。小さな町で、中心にあるカフェにいると、会いたい人に会うことができた。みんな通りかかって「やあ、どう?」みたいな流れになる。その気持ちよさは日本では経験できないものだった。そういう雰囲気が喫茶7番でうまれつつあると思う。

 人間はサルから進化したので、そもそも群れで暮らす生き物だ。戦後の高度経済成長の中で、群れが解体され、個人・家族が直接巨大なグローバル社会に向き合うことになった。困っても誰に助けを求めて良いかわからない。困っている人を助けてあげようと思ってもどうしていいかわからない。そういう社会で働き、暮らし、子育てすることの困難と不安を私たちは共有している。群れで暮らし、群れで子育てする地域社会を再び構築するにはどうしたら良いか。これが私は地域が抱える最も重要で最も緊急度の高い課題だと思う。都会でのそのチャレンジの最先端にあるのが錦二丁目だ。私たちは、農山村で「群れ」を再生しようとする立場から、何かと連携していきたいと思う。

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