昔話:ティモシー・リアリーの想い出など

ぼくが初めて訳した商業出版は、H・R・ギーガーの画集だったんだけれど、それを出したトレヴィルという西武系の出版社の編集者川合さん (というか彼一人しかいなかった) が「じゃあ是非これもやってください!」と言って翻訳させられたのが、ティモシー・リアリーの『神経政治学』だった。

ドラッグやったら脳の回路が活性化して新しい世界が見えるぜ、それでみんなニュータイプになって宇宙にさいくだ! という、まあまぬけもいいところな本だったが、一応張り切ってやって、ついでにこれで大学院の学費は自分で稼げるぜ、親の世話にはならないぜ、と大見得を切ったんだが、なんと大学院に入る前に仕上げたのに、実際に本が出てお金が入ってくるまでに2年以上かかった。別に訳文にはぜんぜん文句はつかなかったんだけれど、なんでも川井さんみずから各ページの版下にロットリングで線を引いてデザインして、無用に凝りまくった結果、らしい。学費を払うどころではなく、親に恥をしのんで頭を下げるはめになると同時に、こんな不安定では翻訳家なんかになったら死んでしまうなあ、と思い別の道を考えるようになった、ある意味で恩のある本ではある。

当時はまだ、電子メールなどという便利なものもなく、著者に質問があるときはファックスで送っていたんだが、リアリーは本当にダメな人で、質問したらその該当箇所を開いて見るくらいの手間はかけてもいいんじゃないかと思うんだけれど (だってアンタが書いた本でしょうに)、ぜんぜん勝手な思いこみでデタラメ送ってくる。たとえば、進化論を教えてクビになったか裁判沙汰になったかで有名な、スコープスという人がいる。いまならググれば一発でわかるが、当時はそんなこともできず、調べてもわからなかったので当人に聞いたら……

スコープというのはね、テレスコープとか、マイクロスコープとか、こんな覗く筒みたいなやつだよー

というまぬけな返事がきた。いやちがうよ、お前あきらかにこれ人名だよ、自分の本くらい見てよ、と書いたら、「こないだ返事しただろう、お前はあれがわからんのか、それで翻訳できるのか」というファックスが帰ってきて、こちらも怒って、その頃には自分でも調べがついていたので、「この進化論のヤツだろ、他に考えられないからそう訳すが、どうしても望遠鏡にしてほしければそうする」とファックスしたら、やっと見てくれたらしく、「ヒロオ、お前は天才だ、お前の指摘通りであり、私のまぬけな答を許して欲しい」としおらしく謝ってくれたっけ。そんなことが何度かあった。

その訳書に、武邑光広と伊藤俊二が、本当に無内容な序文を書いていて、リアリーが「何が書いてあるのか読みたいから訳せ」というので訳して送ったら、特に武邑の文章はいつもながらまともな日本語ですらなく、無意味なカタカナを並べてもったいつける手法が、英語にすると一切通用しなくなることもあって、「意味がわからないがこれは本当に正しい翻訳なのか」と問い合わせがきましたよ。いやはや、これ以上はないというくらい厳密で正確な翻訳だったんですよ。

彼の自伝も訳した。

これも原著がかなりひどい編集で、何カ所か囲みのコラムが入っているんだが、それが原文の上にそのまま貼ってあって、原文がブチ切れている。で、「ここがぬけてるから文ください」と連絡したところ

そんなはずはない。私の編集者は優秀だ、それにこの本はスペイン語とXX語にもなったがだれもそんなことは指摘していない

とのファックス。そいつらいい加減なだけだよ、頼むから自分の本見てよ! これも何度かのやりとりの結果、以前にも増して頑固になっているのにいい加減うんざりして、最後はこっちで他の本に収録されている文で補ったんだっけな?

んでもって、これで縁が切れたかな、と思ったら、インターネットでアメリカのWIRED以上に軽薄なネットアングラカルチャー誌みたいなのが、一瞬だけ幅を利かせるようになり、それを受けて日本で出たのが、CAPE-Xという雑誌だった。

で、これにティモシー・リアリーが連載するというので、翻訳してくれという話になり、ぼくは仕事を断らないのでホイホイ引き受けたら……

まあとにかく、どうしようもない無内容なひどい原稿ばかり。が、それはまだいい。その無内容名原稿が、とにかく遅い。締め切り破るどころか、入稿直前まで原稿がこない。で、毎回、編集の鈴木陽子さん (姓は仮名) がさんざん催促して、もらったらぼくが (たいがい会社でコッソリと) 1時間もかけずに翻訳して印刷所にぶちこむ、というのがルーチンになっていた。中身も支離滅裂。こんなものを、この短時間で少しでも読めるものにして出せるなんて、ワタクシくらいしかできませんわ、という自負はあったが、あまり訳にたつ自負ではない。もうリアリーも、もともとダメだったが焼きがまわりきったか、というような話を鈴木さんとよく電話で話していたんだが……

あるとき、その鈴木陽子さんが、原稿がまだきてないけれど、きたら今日中に訳ができますか、という相談の電話のついでに「リアリーは本当にボケてるんじゃないでしょうか……」と言いにくそうに言う。どうしたんですかと尋ねると話してくれたのが……

原稿の催促の電話をしたところ「おお、もうすぐだ大丈夫大丈夫」と例によって、まったくあてにならない太鼓判を押してウダウダしゃべっくったんだとか。

「でもそこで突然リアリーが『そういえばジョンは元気か?』って聞いてきたんです」

ふーん……ジョンってだれ? どなたかお知り合いですか?

「ええ、私もそう聞いたんです。そしたらいきなり、ものすごい怒り始めたんです。ジョン・レノンだよ! あたりまえだろう! ヨーコ、おまえは自分の旦那を忘れるとは何事だ!』って……」

ジョン・レノン???!!?? え、ひょっとしてそれってまさか……

「ええ、どうも私のことを、オノ・ヨーコだと思ってるらしいんです!! ネタじゃなくて本気で!」

どっひゃー。いやまあ、ヨーコにはちがいないけど……

ついでに言うなら、その時点でジョン・レノンは20年近く前に死んでおりました。

それはかなりヤバいし原稿的にもアレだし、そろそろ切る算段をしてもよいのでは、という話をしていたら、リアリーを切る前に雑誌そのものが潰れたのかな。いや、なんか断捨離の中でリアリーの訳書が出てきたもんでつい思い出してしまいましたよ。