明治憲法史 (ちくま新書)
日本国憲法を美化する人は、明治憲法は「万世一系の天皇」の統治する専制的な憲法だと思っているかもしれないが、これは当時としては世界でもっとも民主的な憲法だった。日本が戦争に突入したのは、憲法の「明治デモクラシー」が機能しなくなったためだというのが著者の見方である。

美濃部達吉は「天皇機関説」で政治的に迫害された立憲主義者として知られているが、1933年に『中央公論』に掲載された論文で、政党政治を批判してこう書いている。
単純に立憲政治の常道に復するということだけでは吾々は到底満足し得ない。吾々の希望したいことは、此の際、各政党の首領、軍部の首脳者、実業界の代表者、勤労者階級の代表者を集めた円卓巨頭会議を開き[…]財政及び経済の確立に付き根本的の方針を議定し、此の大方針の遂行に関しては、恰も戦争に際した時の如く、暫く政争を断って、挙国一致内閣を支持することである(強調は引用者)。

ここで彼が提唱している「円卓巨頭会議」は議会とは別の職能別組織だが、それが「挙国一致内閣」を支持するというのは、のちの大政翼賛会に近い発想である。1930年代には美濃部だけではなく多くの進歩的知識人が、腐敗した政党政治では危機は乗り越えられないと考え、挙国一致体制を提案したのだ。

戦争は明治憲法にもかかわらず起こった

美濃部が天皇機関説を提唱したのは1912年の『憲法講話』で、1930年代には彼は立憲主義の限界を挙国一致の円卓巨頭会議で乗り超えようとする総力戦体制の提唱者だった。それが軍部に攻撃されたのは、彼にとって不本意だった。

明治憲法が「天皇主権」だとか「統帥権の独立」で軍部が暴走したという話は、よく考えるとおかしい。当時の憲法解釈の主流は美濃部の天皇機関説であり、統帥権は外交や財政には及ばない。日中戦争も日米戦争も軍部が決めたのではなく内閣の正式決定であり、その予算は議会が承認したのだ。

国家予算で動く機関の独立性というのは、フィクションにすぎない。それは政治的には必要なフィクションだが、独立性が過剰に強調されるのはそれが機能しなくなったときである。1937年の日中戦争以降も憲法は変わらなかったが、軍部に迎合する政治家がその解釈を変えたのだ。

だから美濃部が戦後、新憲法に反対したのも不思議ではない。あの戦争は明治憲法ゆえに起こったのではなく、明治憲法にもかかわらず起こったのだ、と丸山眞男も書いている。

明治憲法を変質させたのは総力戦体制であり、それを圧倒的に支持したのは国民だった。明治政府と自由民権運動の対立の中で「明治デモクラシー」として生まれた明治憲法を破壊したのは、普通選挙の「昭和デモクラシー」だったのだ。