■トランプ時代のパレスチナ問題―難民問題を中心に


ヌーラ・エラカート
BDS japan 発足集会「あなたにもできる!イスラエル・ボイコット」
2018年12月16日 於・在日本韓国YMCA 通訳・高橋和夫


まず何よりも「ありがとう」を。パレスチナ人を含む全ての人に自由と尊厳、そして正義を――という原則に積極的に関わってくださり、本当にありがとうございます。ここに来てたくさんの人々からのサポートを受け、心から感動しています。米国から来た身としてはなおさらです。米国はイスラエルの最大の出資者であり、イスラエルが占領とアパルトヘイト、入植型植民地主義を続けることを可能としている国家ですから。しかも米国議会では今、非暴力の市民社会運動であるBDSへの参加を非合法化し、最大で懲役20年および民事制裁金25万ドルを課せる法律の制定が検討されています。そんな場所からここに来て、たくさんの参加者の方々のお顔を見ると、心が浮き立って希望に満ちあふれてきます。


日本に来て今日で3日目です。毎日、パレスチナ問題にかかわる喫緊のテーマを1つずつ、講義の主題として扱ってきました。初日には大阪でエルサレムの話をしました。昨日は多田謡子反権力人権賞の受賞式で、ガザとそこにおける戦争について入植型植民地主義の枠組みからお話しました。今日は難民について、とりわけ国際連合パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)に対する3億8400万ドルの予算削減について論じたいと思います。


皆様もおそらくご存じのとおり、トランプ政権はパレスチナに対して極端な政策をとってきました。例えば米国大使館をテルアビブからエルサレムに移したり、米国から西岸への援助を2億ドル削減したり、ワシントンDCのPLO大使館を閉鎖したり。さらには先ほど申し上げたとおり、米国からUNRWAへの援助を一切打ち切りました。


表面的には、トランプがこれまでの米国の外交政策から大きく舵を切ったように見えるかもしれません。しかし、トランプの方針は、米国が1967年以来50年間にわたって続けてきた二枚舌のふるまいにしっかりと沿っているということを強調しておきたいと思います。米国は、法律上、また政策上、イスラエルの占領に反対すると宣言してきました。しかし他方では、イスラエルに絶対的な軍事・経済・外交支援を続け、イスラエルが入植型植民地主義的侵略を継続できるようサポートしてきたのです。


今日のトークは3つのパートに分かれています。まず、難民とパレスチナ人の存在そのものをイスラエルがいかにして「安全保障上の脅威」に仕立て上げたか、これを説明するために歴史的文脈を振り返ります。続いて、これまでイスラエルがどのように難民とUNRWAを攻撃してきたかをご説明します。さらにこれをふまえて、トランプ政権がもたらした状況の下での私たちの課題についてお話したいと思います。


「安全保障上の脅威」に仕立て上げられるパレスチナ難民


イスラエル国家成立の歴史を詳しく振り返ることは、今日はしません。1917年のバルフォア宣言で方針が具体化したところがスタート地点だと申し上げましょうか。かつてオスマン帝国領だったパレスチナはやがて英国の委任統治下に置かれましたが、1947年に国連がこの地を分割し、ユダヤ人とアラブ人、それぞれの国を設立することを提案しました。今日のところはこれを押さえておけば十分でしょう。


分割が提案された時点で、パレスチナにおけるおおまかな人口比率は、ユダヤ人が30%、パレスチナ人が70%でした。パレスチナ人は分割を拒否しました。パレスチナの地にユダヤ人が存在してはならないと言ったわけではありません。パレスチナ人はユダヤ人に、彼らだけの国家の主権者となるのではなく、むしろ(分割されていない)パレスチナの市民になってほしいと望んだのです。したがって、分割案を実行するには軍事力を用いるしかありませんでした。米国、英国、国連は軍事力の使用に消極的だったため、イスラエルの――あるいはシオニストの――民兵組織が自らの手で武力を用い、イスラエルという国を樹立したのです。


イスラエルの建国にかかわったシオニズムの指導層は、ユダヤ人が人口上の多数を占めることがイスラエルの存在基盤であると定めました。ベン゠グリオンは人口の80%をユダヤ人が占めるべきだとしました。しかしユダヤ人が30%、パレスチナ人が70%という当時の人口比を考えると、パレスチナ人を追放しない限り、この数字を達成することは不可能です。イスラエルの歴史アーカイブには、シオニズム側の指導者たちがパレスチナ人を追い出すよう指示したという決定的証拠は残されていません。しかし現実には、追放が行われました。


こちらが分割案です。パレスチナの地の55%がユダヤ国家、45%がアラブ国家になるとされていました。1949年の休戦時には、イスラエルは土地の78%を占拠していました。国連の割り当てより23%も広い面積です。


イスラエルは1948年5月14日に独立を宣言します。この翌日、アラブ・イスラエル戦争が始まりますが、この時点ですでにシオニスト側によって13回の本格的な軍事作戦が展開され、25万人のパレスチナ人が故郷を追われていました。


5月15日、ヨルダンとエジプト、シリア、レバノンが建国直後のイスラエルに宣戦布告します。これがアラブ・イスラエル戦争です。戦争状態は1949年3月まで続きました。その中で500のパレスチナの村が破壊され、75万人のパレスチナ人が故郷を追われました。イスラエルは、シオニストの指導層が定義したユダヤ人の人口的優位性を保つために、パレスチナ人の帰還を許しませんでした。


その後イスラエルは国連加入を申請しますが、拒否されます。国連側が出した条件は、国連総会決議194号に従い、難民を帰還させ、国境を画定し、エルサレムの問題を解決することでした。


イスラエルはパレスチナ難民の帰還権を拒否しました。難民を帰還させれば国内で戦争を起こされる、イスラエルとアラブ諸国の間に恒久的和平が樹立されない限り帰還は許さない、というのがイスラエルの主張でした[注2]。


[注2] 当時の国連代表アバ・エバンがこの議論を展開した。


しかし実のところ、ヨルダン、エジプト、シリアはいずれもイスラエルに和平交渉を申し入れていましたが、ベン゠グリオンは、難民の帰還は和平の代償としては大きすぎるとして、これらの申し入れを拒んでいたのでした。


イスラエルは建国時から、難民の追放を誇るべき業績とみなしてきました。そして建国後は、難民の帰還を国家の破壊に等しいものとみなしました。こうして、難民のイスラエル領内への帰還権は、イスラエル国家の存在の危機、あるいは国家の終焉そのものと同義とされたのです。これは難民が安全保障上の脅威であるからではなく、彼らが領内にいればユダヤ人の人口上の優位性が覆されるからでした。ゆえにイスラエルは、パレスチナ難民を「セキュリティ化」する――すなわち、難民を犯罪的な安全保障上の脅威に仕立て上げる政策をいくつも打ち出しました。


そういった動きのほんの一部をご紹介します。たとえばイスラエルは緊急事態宣言を発して、イスラエル領内に住まう約16万人のパレスチナ人に軍令を適用し、彼らを軍政下におきました。軍政の目的は、パレスチナ人の移動を制限し、裁判なしの拘留を行い、家屋を破壊し、社会参加や報道の自由を制限すること。そして今後新たな戦争が起こった際、領内に残るパレスチナ人全てを追放できるようにすることでした。


イスラエルはまた、イスラエルに帰還してくるパレスチナ人の射殺を容認する方針を採用しました。ごく最近、イスラエル軍がガザのパレスチナ人に対してとった方針を思い出された方もおられるでしょう。1948年から1960年の間にかけて、イスラエル軍は徒歩で帰還を試みた非武装の難民3000から5000名を射殺しています。


>>次回につづく