だいずせんせいの持続性学入門

自立した持続可能な地域社会をつくるための対話の広場

信仰について(1)

2020-02-06 10:35:58 | Weblog

「出雲の一畑薬師へ詣でたとき、目のわるい人が朝早く海岸の海藻を拾って来て、薬師の真言を唱えながらこれを仏前にそなえるのを見た。そのような人々のために篭堂があって、この苦行を何ヶ月もくりかえしていると、不思議に目が見えるようになるという。・・・日本人はこうした苦行を通して、誠心を神仏にしめすことによってはじめて、その加護を求めることができると信じた。しかし苦行の精神構造を分析すると、われわれの病気や災難は、自分自身または先祖の犯した罪や穢(因)の報い(果)とうけとり、その罪穢をほろぼすための実践であった。」 五来重『日本仏教と庶民信仰』2014年、大法輪閣、p.230

 

 私は田舎の地域再生の支援を仕事としてあちこちを訪問するうちに、その多くの場所に弘法大師の信仰があることに気がついた。三重県多気町の丹生には湧き出る冷泉に大師の伝説が残りこれは大師湯と呼ばれている。その目の前に弘法大師を祀る丹生大師神宮寺がある。愛知県豊田市旭地区の太田町にある福蔵寺は境内に弘法大師の石像が立っていて、春になると集落では僧侶を頼んで弘法様を祀るお祭りをする。三河新四国八十八カ所の札所の一つでもある。愛知県瀬戸市海上の森の中にあるもうほとんど消滅した集落には小さな祠の弘法様がある。

 岐阜県恵那市飯地町では、人口600人の狭い地域に八十八カ所の札所があり、毎年旧暦3月21日は弘法様のお参りの日でかつては多くの人が参詣に訪れたという。八十八カ所の中にはお寺や祠はもちろん、個人の家も多い。お参りの日には当家ではちょっとした料理やお菓子を準備して参詣客に接待をした。今では近くの集会所などに集まってやっているものの、いまだにお接待は続いている。

 各地に弘法大師の清水伝説が残る。旅の僧が水を求めた時に、老女が遠くから運んだ水であっても快く施したところ、大師が杖をついて清水が湧き出した。逆に水を惜しんで施さなかったり、洗濯の水を与えたりしたら、大師はそこに出る水を止めてしまった、というような話である。何事にも超能力を発揮して民衆を助けたり懲らしめたりする弘法大師は庶民にとって身近な存在だ。

 実際の弘法大師空海は若い頃に無名の優婆塞(半僧半俗の在家の仏教者)として諸国を放浪しまた海岸修行や山岳修行を行ったらしい。その行場が四国にいくつかあったために、それが四国八十八ヶ所霊場の元になっている。四国八十八ヶ所巡りは「同行二人」と言われ、弘法大師がついて歩いてくれているという。また巡礼者の中に弘法大師がいるかもしれないということで、地元の人は巡礼者に食べ物や宿の提供など手厚く接待をしてきた。

 五来重氏の一連の「仏教民俗学」の著書を読むと、日本の仏教には二つの系統があったという。国家に認定され、国家が設立した大寺院で勉学に励みながら、国家の安寧を祈願する官度層。仏教が日本に伝来したのは国家事業としての中国との交流の中であり、仏教が日本に導入された目的は国家安寧を祈願するためのものであった。奈良に法隆寺や東大寺などの大寺院が建立され、ここに勤めるいわば「公務員」が正式な僧侶であった。この僧侶たちには戒律に基づいて肉食妻帯は許されず、また勝手に地方に出歩くこともできなかった。彼らが民衆に仏教を布教することはなかった。

 それに対して、僧侶のようないでたちをしながら、国家の認定をえないで勝手に僧を名乗るのが私度層で、彼らは優婆塞(うばそく)、沙弥(しゃみ)、聖(ひじり)などと呼ばれ、戒律に縛られず妻帯したりしながら各地を渡り歩いた。道中、人々の家を訪ねて、仏教の教えを語り、作善(さぜん)を勧めた。その教えとは、病気や災害などの不幸は自分や祖先の罪や穢れから来ている。それを滅することによって救われる。作善とはそのために寺院の建設、仏像の製作や写経、さらには橋をかけたり洞門を掘ったりなどのために喜捨をするというもので、そのような寄付を募って歩いた。その寄付の中から自分の食い扶持も得た。この寄付行為を勧進(かんじん)と言い、彼らは勧進聖とも称される。

 空海は若い修行時代に無名の聖として諸国を歩いた。その後中国に渡るチャンスを得て密教を学んだ。そのタイミングで官度僧として認定されたようで、帰国後に真言宗を開く。天皇から高野山の地をもらい受けて、高野山金剛峰寺を開く。さらに天皇から京都の東寺の運営を任され、ここを拠点に宗旨を深める探求を行う。その間に、依頼されてため池をつくる事業の「現場監督」として四国に出張したりしているものの、官度僧になってからは空海自身が諸国を歩き民衆に教えを広めたということはない。

 空海が亡くなった後、高野山には聖たちが集結するようになる。高野聖である。近親者の死やさまざまな揉め事に嫌気がさしたりなど、いろいろな事情で世を捨てる決心をした者が高野山に登る。小さな僧坊に起居して修行を積んだ。彼らが諸国を歴訪して勧進をして歩いた。例えば大きな寺院が火災に遭い伽藍を再興しようというような時に、寺院は聖の「親分」に事業を「委託」する。親分は手下の聖を使い、諸国を巡って寄付を集めさせ事業を行う。聖の集団は資金調達から建築まで一貫して行う一種の請負団であった。またそのような事業があることで自分たちの食扶持も得ることができたのである。

 彼らが弘法大師の伝説と信仰を諸国に広めた。自らを弘法大師の弟子として紹介し、その霊験を物語り、信仰を広め、そして寄付を集めたのである。

 聖たちは各地で厚く遇されたという。夕闇が迫ると「宿を借りたい」と辻で叫べば、必ず泊めてくれる家があったという。彼らの遊行(ゆぎょう)の旅は中世にあっては苦行であった。途中の霊場では山に籠もり滝に打たれて修行した。

 この世の不幸の元となっている自分や先祖が犯した罪や穢れは、苦行によって滅することができると考えられた。というのは、罪や穢れのために死んでから地獄の責を受けるところを、生前にその一部を苦行として「先払い」しておけば、死んでからの責め苦が少なくなり、安らかに死んでいけるという考えである。これは聖自身の罪や穢れを滅するための苦行であるが、同時に民衆は聖たちに自分たちの分をなり代わって苦行してもらうという「代受苦」の考え方があったという。自分は苦行はできないけれども、聖に代わりに苦行をしてもらって救いを得る。民衆から見ればそのための喜捨であり、接待である。

 頼富本宏『四国遍路とはなにか』角川学芸出版、2009年によると、四国八十八ヶ所が庶民に開かれるにあたって大きな働きをしたのは、江戸時代初期に活躍した真念(しんねん)で、彼は弘法大師に深く帰依した高野聖だった。真念は辺路屋という宿泊施設を整備し、標石を立て、案内書を刊行した。真念が高野山の学僧寂本に依頼して編集した案内書である『四国徧礼霊場記』は八十八ヶ所は弘法大師の霊跡とし、巡礼と弘法信仰のつながりを決定づけた。真念自身が書いた案内書である『四国徧礼功徳記』には巡礼の利益として病気平癒が強調されている。これらの書物の出版は関西を中心とする有力商人らによる喜捨で行われている。このようなインフラ整備によって、江戸中期になると八十八ヶ所巡りが庶民の間で大ブームとなり、今に至るのである。

 その中で、八十八ヶ所の寺院の中に別棟として大師堂が整備される。霊場に到着すると本尊と大師堂の二つを礼拝する習慣となった。

 さらに他の地方にも四国を真似て新四国八十八ヶ所が整備されていった。その皮切りが愛知県内の三河八十八ヶ所だった。そして、恵那市飯地町内に八十八ヶ所が整備されるのは、ずっと時代が下った昭和の初めだった。札所の家には小さな弘法大師の木像と他の八十八ヶ所を巡った証拠の朱印帳が札所の証として大事に保管されている。つまり、八十八ヶ所の家人が四国なり三河なりの八十八ヶ所の巡礼を達成して初めて新しい八十八ヶ所が開かれるのである。ここには88×88=7,744の参詣があったわけで、その信仰のエネルギーはとても大きなものがあると思う。こうして八十八ヶ所が全国に広まっていったものだろう。

 現生の不幸は自分や祖先の犯した罪や穢れのせいであるという信仰は、もちろん仏教とは何の関係もない。仏教伝来以前の日本古来の信仰である。それが仏教が日本に入り、国家の宗教ではなく聖たちが諸国を歩いて民衆の宗教となっていく過程で、教説の中に取り込まれ、ないまぜにされ、それとともに仏教が民衆に根付いていったわけだ。

 さて、現代における仏教の、あるいはもっと広く信仰のもつ意味やそのあるべき姿はどういうものであろうか。

 五来はかつて聖たちの広めた信仰の延長に現代の「葬式仏教」もあるという。住職は肉食妻帯し普通の人と変わらない暮らしである。現代の優婆塞とも言える。人々の近親者の死を悼む素朴な思いを叶えるために供養をする。それは庶民のための仏教がずっとやってきたあり方であり尊いものだ。しかし現代の住職とかつての聖が違うのは、現代においては彼らは遊行し苦行する行為がないことであり、五来はそれを批判する。これでは本当に死者の魂を慰め送り出すことはできず、「葬式仏教」として成立していない、というわけである。

 ではどういうものが現代にふさわしい、現代人にもしっくりくる信仰なのか。おいおい考察していきたい。

(つづく)

 

 

 

 

 

 

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