2021年11月18日
アレントのスターリン主義批判
アレントの『全体主義の諸起源』は、歴史的起源を偶然の産物として描く。ここで、ブローデルらによる歴史社会学の方法に触れておこう。出来事は、ふつうそのまま社会構造の変革を生み出すことはない。技術革新は、その分野の生産性を高め、大きな収益を生み出すが、その変化はやがて市場によって安定価格に導かれ、総じて構造に変化をもたらすことはない。
しかし、18世紀のイングランドにおけるように、紡績機と紡織機の改良が、互いに互いの技術開発を刺激し合うことが起こると、その周辺に工具や部品製造の産業が集積し始める。簡単に部品がそろう市場の集中が、次の技術革新を可能にするのである(例えば秋葉原のことを考えるだけでよい)。どのような所に需要の拡大と供給のひっ迫が起こり、どのような技術革新が起こっているかを知らせる業界情報誌などの存在も、技術革新を準備するには必要な社会的インフラとなる。こうして持続的な技術革新を可能にする構造が生まれる。このように、複数の出来事が重合して、構造の変化につながる事態、ちょうど出来事と構造という時間的持続の中間の持続を持つ重合局面(conjoncture)という過程が出来事から構造変化への媒介として重要になる。
資本主義の成立史において、16世紀イングランドの国王ヘンリー8世による宗教改革と修道院の接収並びにその土地の民間払い下げという出来事が起こった。ちょうどその頃、新大陸で豊富な銀が発見され、大量の銀がヨーロッパに流入してインフレが起こった。この二つの出来事の重合が、土地の投機を生み出した。ブローデルによれば、これが土地という生産手段の市場を生み出し、資本主義生成の出発点になったという。それ以前には、土地の商取引は慣習的に忌避されていたのである。
アレントは、反ユダヤ主義と帝国主義という二つの要素の重合によって、全体主義が発芽したというシナリオを描いた。しかし、このシナリオにうまくあてはまるものは、たかだかナチズムのみであり、もう一つの全体主義であるスターリニズムには当てはまらない。実際、アレントの『起源』は、ナチズムはともかく、スターリン主義の分析に関してはお粗末なものである。アレントはそのことに気づいていて、以後マルクス主義の研究に没頭した。以後の主要著作、『人間の条件』『革命について』『過去と未来の間』『精神の生活』などは、その成果である。それらがいかなる意味でマルクス主義批判、とりわけスターリニズム批判になっているかについて考察しておこう。
しかし、18世紀のイングランドにおけるように、紡績機と紡織機の改良が、互いに互いの技術開発を刺激し合うことが起こると、その周辺に工具や部品製造の産業が集積し始める。簡単に部品がそろう市場の集中が、次の技術革新を可能にするのである(例えば秋葉原のことを考えるだけでよい)。どのような所に需要の拡大と供給のひっ迫が起こり、どのような技術革新が起こっているかを知らせる業界情報誌などの存在も、技術革新を準備するには必要な社会的インフラとなる。こうして持続的な技術革新を可能にする構造が生まれる。このように、複数の出来事が重合して、構造の変化につながる事態、ちょうど出来事と構造という時間的持続の中間の持続を持つ重合局面(conjoncture)という過程が出来事から構造変化への媒介として重要になる。
資本主義の成立史において、16世紀イングランドの国王ヘンリー8世による宗教改革と修道院の接収並びにその土地の民間払い下げという出来事が起こった。ちょうどその頃、新大陸で豊富な銀が発見され、大量の銀がヨーロッパに流入してインフレが起こった。この二つの出来事の重合が、土地の投機を生み出した。ブローデルによれば、これが土地という生産手段の市場を生み出し、資本主義生成の出発点になったという。それ以前には、土地の商取引は慣習的に忌避されていたのである。
アレントは、反ユダヤ主義と帝国主義という二つの要素の重合によって、全体主義が発芽したというシナリオを描いた。しかし、このシナリオにうまくあてはまるものは、たかだかナチズムのみであり、もう一つの全体主義であるスターリニズムには当てはまらない。実際、アレントの『起源』は、ナチズムはともかく、スターリン主義の分析に関してはお粗末なものである。アレントはそのことに気づいていて、以後マルクス主義の研究に没頭した。以後の主要著作、『人間の条件』『革命について』『過去と未来の間』『精神の生活』などは、その成果である。それらがいかなる意味でマルクス主義批判、とりわけスターリニズム批判になっているかについて考察しておこう。
ヘーゲル
マルクス主義について吟味する前に、ヘーゲルの弁証法について迂回しよう。ヘーゲルは、アリストテレスの弁証法を近代に復元した。アリストテレスにおいて信念間の矛盾から意味の再検討・再定義が求められるとき、信念(ドクサ)の全体が参照される。ヘーゲルにおいては、意味を担うのが信念に限られず、行為や欲望を含む経験の全体へと拡大される。するとあらゆる社会の対立葛藤が、その弁証法の中に入ってくることになる。それが個人の意味理解に限定される必要はない。すべての行動や経験が固有の概念的正当化と含意を踏まえながら、対立することになる。
たとえば忠臣蔵の例を考えてみよう。殿中の武力行使が、浅野内匠頭によっては武断主義的武士倫理によって正当化されており、他方吉良の側としては、封建制を基礎づける儒教的名分によって正当化されることになる。一方は、戦国武士の伝統に基づく忠義と実力主義(一所懸命)に基づいており、他方は長く続く文治主義的統治において次第に有力になる儒教倫理と有職故実の掟のイデオロギーに基づいている。
ここで、武断主義と文治主義の両規範が、共に封建的支配体制の基礎に潜在しておりながら、商品貨幣経済の浸透とともに、次第に矛盾として顕在化してくるさまを見ることができる。
ちなみに我が国の幕藩体制は、中国・朝鮮の封建体制に比べると、はるかに武断主義的であった。それは統治権力が武士階級に握られていたこと、対するに中国・朝鮮においては科挙制度が機能し、儒教的統治の原則がそれを通じて浸透していたことが、その理由として挙げられよう。文官による家産官僚的統治は、必ず賄賂政治に直結する。それは公的なものと私的なものの区別があいまいだからである。貨幣経済の進展とともに、賄賂政治の横行に批判が高まるのも当然であろう。
忠臣蔵は封建体制の基礎原理から二つの規範の対立を生み出しているからこそ、矛盾ということができる。それが単なる利害の違いとか階級対立にとどまらず矛盾となる理由だ。一部のマルクス主義者が粗雑な言葉使いで生産力と生産関係の矛盾について語ることがあるが、生産力と生産関係は、それぞれが物質的な制度的存在者であるかぎりは、矛盾のしようがない。そのような所に矛盾という言葉が使われると、弁証法の本義(それが意味論的探究であること)が見失われてしまう。とはいえ、「生産力」と「生産関係」の矛盾と言われてきたことの内実を見ると、実際には次のような事態を指していることがわかるだろう。たとえばアメリカ南部地方の奴隷制においては、地主たちがその時代に利用可能な技術水準の採用を見合わせて、ことさら低い生産性に満足することが起こっている。それは、奴隷労働の方がコストがかからず、また奴隷たちには新しい技術や道具が利用できないからである。新しい技術を使いこなすには、高い教育水準や繊細な注意力が必要であり、奴隷たちには鈍重で壊れにくい道具しか与えられないからである。このような制度的要因を踏まえれば、奴隷制は時の技術生産性に矛盾するということもできる。それは、実際には社会全体の利益主張と地主たちの利益主張が矛盾するということなのである。
忠臣蔵の「矛盾」は、ブルジョワ的原理が登場するまでは解決しない。それが未解決であることは、忠臣蔵劇の美的上演の基礎であると言えよう。内蔵助の政治は実質的には何の成果もあげられない。賄賂政治の改善も、浅野大学による浅野家復興も、達成することなく、ただ美的・心理的昇華が与えられるだけだ。封建的慣行によると、賄賂は下賜された権力者からの恩沢に対する正当な謝礼であり、他方討ち入りは、家臣たちの主君に対する忠義の表現である。いずれも義しいことになる。しかし、ブルジョワ的原理に立つと、賄賂は市場合理性を撹乱する反公共的な犯罪であり、他方討ち入りも、社会の安寧秩序を撹乱する違法な暴力に過ぎない。マルクス主義的な見地から言えば、忠臣蔵劇は、封建的原理では解決できない問題を呈示しながら、来たるべきブルジョワ的原理を予感させるものであることになろう。
ヘーゲルの弁証法は、ある意識がその真実(真の意味)に気づいていないということがあり得るという前提に基づいて起動する。アリストテレスにおいても、信念の真の意味が気づかれないということはあった。そもそもソクラテスの弁証法が、そのようなものであった。我々の信念が言語的に表現されねばならないことから、その矛盾に気づかないこと、それ故その真の意味に気づかないことがあり、矛盾を避けようとする主体の意志によって、概念再定義の運動が起動するのである。
ヘーゲルにおいては心的内容を媒介する言語の社会性が重視される。その結果、心的内容は社会化する。つまりイデオロギーという形をとる。浅野陣営も吉良陣営も共に封建イデオロギーの一端を代表し、それぞれにとっての自己主張は、支配的イデオロギーの引用表現なのである。だからこそ矛盾ということが可能になるのである。しかもアリストテレスの場合と違って、弁証法の運動は、中立的な理論家による意味論的探究ではなく、実際の社会的闘争における概念変容なのであり、時間を要する社会的事業であることになる。それをヘーゲルは「否定的なもののもとへの滞留」と呼んだ(『精神現象学』序論)。かくて弁証法は歴史化する。意味は、物語のように時間を経て現れるのである。
さて、ルカーチは意識の真実を時間的に解き明かしてゆくというヘーゲルの弁証法をブルジョワ社会の意識に適用する。すると、物象化によって部分的合理性にとどまっていた現象を、経験の全体性に訴えることによって克服する解読が重要となる。『資本論』によれば、資本が利潤を産出するとだけ見る物象化した見方を克服するには、資本の流通過程の全体が参照されねばならない。ある商品の消費は、別の商品の生産であり、労働力商品の維持再生産は、同時に生活物資の消費であるというふうに、相互に結びついている。そのような全過程は、資本が次々に姿を変えて循環する過程であることになろう。すると、そこに生産過程も含まれる。そうしてこそ、生産手段や労働力の果たす役割の分析が可能になる。
労働者は賃金で生活物資を買い戻さねばならず、そこから賃金水準が決定される。もちろん、その水準は景気動向と共に変動する。通常は労働予備軍(失業者)と労働市場によって、賃金が生活物資の価値以上に高騰することはない。景気が過熱し完全雇用に近づくと賃金はそれ以上に上昇するが、中央銀行による金融引き締めを境に多くの企業が倒産し、失業者が復活し、再び賃金水準は生活必要物資の価値に引き戻されることになる。
他方、企業家がイノヴェーションによって超過利潤を実現した場合、その成果は投資をした資本家のものになる。かくて、資本家による投資がイノヴェーションを達成できれば、労働力が生み出すもの(生産物)と労働力を生み出すもの(つまり労働力を維持再生する生活物資の価値(賃金))の差額が、利潤として資本家のものになるわけである。こうして、利潤の産出は資本の本性という物象化した見方を克服して、生産過程における人間支配の実態から説明されるのである。
さらに、貨幣という価値形態自体も、決して貨幣の自然本性の一つとして物象化して捉えるのではない。商品交換を支える社会構造から、つまりは商品所有者を含む人々の社会的実態から、その流動性(貨幣による購買力)が説明されねばならないのである。単純な商品交換において、その価値が他の商品によって評価される商品の価値形態(相対的価値形態)と、それらを評価する商品の価値形態(等価形態)の区別が出現する。このもっとも単純な価値形態の区別を生み出す原理は、この交換を支える社会的実態(商品所有者たち)を参照することによって見出されねばならない。相対的価値形態と等価形態の区別を生み出すのは、それぞれの商品所有者の社会的地位なのである。つまり商品交換においてゆとりがある所有者の手になる商品が等価形態となり、ゆとりがない所有者の商品が相対的価値形態をとる。ゆとりのない者は、ゆとりのある者の商品交換のイニシアティヴに従う以外にないからである。この価値形態の違いを理解するためには、商品を越えて、その所有者という人間にさかのぼる必要があるのだ。こうしてルカーチにとって、いわゆる価値形態論こそは、物象化を克服して全体性を参照する弁証法の範型を示しているのである。
もしブルジョワ社会が、商品というカテゴリーを社会の隅々にまでいきわたらせる普遍性をもつとしたら、労働力商品である労働者においてのみ商品としての自己認識が社会の普遍的認識になることが可能となるであろう。
ここで重要なことは、かかる全体性への参照が、概念の意味の捉え返し(変容)を可能にすること。つまり、物象化と部分的合理化によって硬化したカテゴリーが、全体性の中で異なる意味を帯びることである。しかも、自分の立場、取るに足らない「特権」に固執して全体性を捉え損なう小ブルジョワ的理論家と違って、プロレタリアートにおいては商品という価値形態を自ら身にまとう事によって、商品経済の全体性の認識が自らの不可避の実存的可能性となる、とされるのである。かくて、ルカーチのようなマルクス主義者にとって、プロレタリアートの立場とは、単なる観察者にとどまらず、自己認識と社会の普遍的認識を重ねざるを得ないところから、認識論的特権性を帯びる特別の実存形式だということになる。それは何らかのポジティヴなものを所有することから獲得した特権ではなく、労働力商品という規定以外いかなる特殊性をも奪われることによって獲得された普遍性なのである。
しかしながら以前にも述べたように、商品貨幣経済が社会の隅々にまで及び、商品という価値形態が社会の一般的認識になるということが成り立つかどうか怪しい。周辺部分において賃労働化され得ない分野を残してゆくのが世界資本主義の常であるばかりでなく、家内労働が商品化され得ない領域を含むのも自明だからである。とはいえ、ルカーチの見立てではプロレタリアートのみが留保なく物象化の運命を一身に体現する所から、社会の普遍的認識へと押しやられることによる認識論的特権性を享受するのである。これはマンハイム流の知識社会学的相対主義(社会的認識を認識者の社会的位置に相対化する立場)を極限化した地点において乗り越える視座を提供するものであった。
ちなみに、このような認識論的特権性の議論は、現存在の特殊な実存可能性が、世界の普遍的認識を可能ならしめる超越論的根拠となるというハイデガーの『存在と時間』の実存論に、重要な示唆を与えた可能性がある(cfゴルトマン)。
もしこのようなルカーチの見立てが成り立つなら、ブルジョワ社会の弁証法は、ただ商品の物神性の解明だけということになろう。そのようなことは信じがたい。第二インターに結集したドイツ労働者の利害は、イギリスの労働者と連帯してドイツとイギリスのブルジョワ同盟に敵対することだけとは限らない。むしろ、自国のブルジョワと連帯して、国際市場でイギリス産業に打ち勝つことかもしれない(ただ、国際競争が激化して戦争にならない限りにおいてであろうが)。
レーニンやウォーラーステインの示唆するように、世界資本主義の発展が不均衡であるなら、資本主義が周辺地域を残しながら発展することは不可避であり、先進地域はその不均等性から構造的に周辺地から、(経済的)搾取というより(暴力的)収奪を行っており、したがって、先進地域の労働者の利害が、半周辺地域の労働者や周辺地域の奴隷たちの利害と一致する経済的必然性はない。戦争を回避するプロレタリア国際主義は、プロレタリアートの利害の一致から(またマルクス・レーニン主義によるその分析から)自動的に流出するものではなく、レーニンのような政治的決断からのみ出てくるものである。国際共産主義運動には確かに、第一次世界大戦に反対したという名誉ある伝統があるとはいえ、それは決してマルクス主義からの自然なまたは合理的な帰結ではなかった。そもそもそれを伝統として尊重するという理論的枠組みすら、マルクス主義には存在しない。総じて伝統や名誉といった観念は、政治の不確実性を重視する保守主義的英知に属するものだからである。
また治安の問題をとっても、経済の問題に還元され得ない。治安の安定は、経済合理性に適うであろうが、それも治安維持にかかる費用が社会の足かせにならない限りであろう。また治安維持の強化が、自由を損ない繁栄に影を落とすようでは、元も子もない。このようなアンチノミーの解決すら、最適解が唯一に決まっているというわけではない。したがって、弁証法の運動が、一方向に進歩を続けるという保証もない。振動や循環を繰り返す可能性もあろう。たとえば広大なモンゴル帝国は、物流コストを下げ、経済発展を促すが、その治安維持コストの増大により、各地方の離反・群雄割拠と内戦を招くかもしれない。そしてまた、内戦が軍事的統一を招来する…という循環。一般に、それらの問題に必ず唯一の解が存在するとは言えないのである。
問題の解が唯一存在するならば、それを見出す英知も存在し得るかもしれないが、政治がそのように主知主義的に理解できるとは限らない。政治が正しい解決を知り、それを制作することであるというのは、政治の技術制作的モデルである。マルクスのフォイエルバハテーゼによると、「これまでの哲学は世界を解釈してきただけ。重要なのは世界を変革すること」である。しかしここでも、「変革」が目的意識的=技術的制作のように考えられていることは明らかである。
古代的美徳の見直し
かくてアレントは、政治活動の独自性を、古代ギリシアを手掛かりに探究することになった。それは、ロマンティックなアルカディアへのノスタルジーによるものではなく、スターリン主義との対決というリアルな必要に基づくものであった。活動は製作と違って、他者を巻き込み不確実性に晒される。したがって、不確実性を削減するために、約束・過去の記憶・権威・法などが不可欠となる。法とは、過去の成功(問題解決のケース)の記憶である。約束は、それを結ぶ個人への信頼に基づく。それゆえここで、人格的要素が重要になる。また信頼し得る人格との友愛が政治活動にとって極めて重要となるのだ。
信頼できる人格とは、阿諛追従を習いとする宮廷の廷臣たち・官僚たちには求むべくもないこと、その心性を支えるのは、いざとなれば身を挺してはせ参じる用意のある何らかの意味での共和国とその独立市民の存在であることは、古代にはよく知られたことであった。だからこそその教育には、実用とはかけ離れて、繰り返し軍事的英雄の伝説が参照されたのである。
マルクス主義は、技術的制作モデルにとらわれているため、これらの要素を無視せざるを得ない。諸個人の行動は、その階級意識から規定されるため、人格的要素が勘案される余地がない。また、過去の記憶は、共有された遺産であるが、マルクス主義はプロレタリアートの所有する遺産を一切取るに足らないものと見なすから、それによって未来に備える知恵も生まれない。むしろその英知は、一切の無所有から(およびそこに由来する脱物象化から)生まれるとされるからである。それは端的に言えば、政治的美徳に対するルサンチマン的見方である。ニーチェによれば、それを史上初めて体系化したのがユダヤ人である。「政治的英知などは、人間には求むべくもない。神のみが未来を予知し得るのだから。したがって、政治的卓越性などは存在しない」。このような観念は、その正しい前半から、誤った後半を導き出すのである。
法の生成は、確実な根拠に基づいてなされるわけではない。たまたまの試行がうまく事態を改善したところから、問題解決の成功事例として記憶されるのである。ということは、ここでの試行は、目的から意味付けられているのではなく、結果から遡って意味を獲得するのである。かかる遡及的意味生成の時間的構造が、活動における意味につきものであるのは、それが活動の不確実性と不可分のものだからである。
スターリン主義の問題点は、単に個人独裁とか権威主義というところにあるわけではない。独裁制は必ずしも民主主義に矛盾しないばかりか、むしろ独裁制に親和的なものである。民主主義は強大な権力集中を可能にする政治制度であり、とくに戦時体制に親和的である。場合によっては、一時的にそれは必要なものでさえある。ローマ人はそのことをよく知っていた。スターリン主義の問題は、未来への本来存在し得ない知識を僭称し、政治的権威に対する信と知とを混同する点にあるのだ。
活動においては、不確実性の中で十分な根拠なく決断せざるを得ない。もともと未来への存在し得ない英知を想定する所から、主知主義的理論構造が極端な権威主義を生み出すことになる。スターリンの英知が想定されるのは、歴史の必然についての知識が可能であるとする極端な実在論的想定に基づくのである。それは、決断力とか勇気のような通常の政治に伴う美徳ではなく、「〜思想」といったところに基づく権威であるが、これは通常の権威主義ではない。通常の権威は、自他ともにそう任じる場合でも、権威者の無謬の知などは想定しない。権威者は、その卓越性が信じられている場合でも、それが知でないのは自明なのである。ところが、スターリンは自らを知と称し、権威とは見なさない。彼らは、権威とか決断のような不合理・不確実な要素を認めることができない。彼らの実在論的・決定論的思考が、その余地を与えられないからである。
政治活動における主知主義的観念は、不確かな根拠に基づく決断とか冒険の余地を残すことができないから、決断が失敗に帰した場合に、その決断を総括することができない。決断が存在しないのであれば、失敗した行動の何を反省したらいいのか全く分からないからである。したがって、遡及して歴史を意味づけることができず、そこから教訓や法を導き出すこともできないのである。
マルクス主義について吟味する前に、ヘーゲルの弁証法について迂回しよう。ヘーゲルは、アリストテレスの弁証法を近代に復元した。アリストテレスにおいて信念間の矛盾から意味の再検討・再定義が求められるとき、信念(ドクサ)の全体が参照される。ヘーゲルにおいては、意味を担うのが信念に限られず、行為や欲望を含む経験の全体へと拡大される。するとあらゆる社会の対立葛藤が、その弁証法の中に入ってくることになる。それが個人の意味理解に限定される必要はない。すべての行動や経験が固有の概念的正当化と含意を踏まえながら、対立することになる。
たとえば忠臣蔵の例を考えてみよう。殿中の武力行使が、浅野内匠頭によっては武断主義的武士倫理によって正当化されており、他方吉良の側としては、封建制を基礎づける儒教的名分によって正当化されることになる。一方は、戦国武士の伝統に基づく忠義と実力主義(一所懸命)に基づいており、他方は長く続く文治主義的統治において次第に有力になる儒教倫理と有職故実の掟のイデオロギーに基づいている。
ここで、武断主義と文治主義の両規範が、共に封建的支配体制の基礎に潜在しておりながら、商品貨幣経済の浸透とともに、次第に矛盾として顕在化してくるさまを見ることができる。
ちなみに我が国の幕藩体制は、中国・朝鮮の封建体制に比べると、はるかに武断主義的であった。それは統治権力が武士階級に握られていたこと、対するに中国・朝鮮においては科挙制度が機能し、儒教的統治の原則がそれを通じて浸透していたことが、その理由として挙げられよう。文官による家産官僚的統治は、必ず賄賂政治に直結する。それは公的なものと私的なものの区別があいまいだからである。貨幣経済の進展とともに、賄賂政治の横行に批判が高まるのも当然であろう。
忠臣蔵は封建体制の基礎原理から二つの規範の対立を生み出しているからこそ、矛盾ということができる。それが単なる利害の違いとか階級対立にとどまらず矛盾となる理由だ。一部のマルクス主義者が粗雑な言葉使いで生産力と生産関係の矛盾について語ることがあるが、生産力と生産関係は、それぞれが物質的な制度的存在者であるかぎりは、矛盾のしようがない。そのような所に矛盾という言葉が使われると、弁証法の本義(それが意味論的探究であること)が見失われてしまう。とはいえ、「生産力」と「生産関係」の矛盾と言われてきたことの内実を見ると、実際には次のような事態を指していることがわかるだろう。たとえばアメリカ南部地方の奴隷制においては、地主たちがその時代に利用可能な技術水準の採用を見合わせて、ことさら低い生産性に満足することが起こっている。それは、奴隷労働の方がコストがかからず、また奴隷たちには新しい技術や道具が利用できないからである。新しい技術を使いこなすには、高い教育水準や繊細な注意力が必要であり、奴隷たちには鈍重で壊れにくい道具しか与えられないからである。このような制度的要因を踏まえれば、奴隷制は時の技術生産性に矛盾するということもできる。それは、実際には社会全体の利益主張と地主たちの利益主張が矛盾するということなのである。
忠臣蔵の「矛盾」は、ブルジョワ的原理が登場するまでは解決しない。それが未解決であることは、忠臣蔵劇の美的上演の基礎であると言えよう。内蔵助の政治は実質的には何の成果もあげられない。賄賂政治の改善も、浅野大学による浅野家復興も、達成することなく、ただ美的・心理的昇華が与えられるだけだ。封建的慣行によると、賄賂は下賜された権力者からの恩沢に対する正当な謝礼であり、他方討ち入りは、家臣たちの主君に対する忠義の表現である。いずれも義しいことになる。しかし、ブルジョワ的原理に立つと、賄賂は市場合理性を撹乱する反公共的な犯罪であり、他方討ち入りも、社会の安寧秩序を撹乱する違法な暴力に過ぎない。マルクス主義的な見地から言えば、忠臣蔵劇は、封建的原理では解決できない問題を呈示しながら、来たるべきブルジョワ的原理を予感させるものであることになろう。
ヘーゲルの弁証法は、ある意識がその真実(真の意味)に気づいていないということがあり得るという前提に基づいて起動する。アリストテレスにおいても、信念の真の意味が気づかれないということはあった。そもそもソクラテスの弁証法が、そのようなものであった。我々の信念が言語的に表現されねばならないことから、その矛盾に気づかないこと、それ故その真の意味に気づかないことがあり、矛盾を避けようとする主体の意志によって、概念再定義の運動が起動するのである。
ヘーゲルにおいては心的内容を媒介する言語の社会性が重視される。その結果、心的内容は社会化する。つまりイデオロギーという形をとる。浅野陣営も吉良陣営も共に封建イデオロギーの一端を代表し、それぞれにとっての自己主張は、支配的イデオロギーの引用表現なのである。だからこそ矛盾ということが可能になるのである。しかもアリストテレスの場合と違って、弁証法の運動は、中立的な理論家による意味論的探究ではなく、実際の社会的闘争における概念変容なのであり、時間を要する社会的事業であることになる。それをヘーゲルは「否定的なもののもとへの滞留」と呼んだ(『精神現象学』序論)。かくて弁証法は歴史化する。意味は、物語のように時間を経て現れるのである。
さて、ルカーチは意識の真実を時間的に解き明かしてゆくというヘーゲルの弁証法をブルジョワ社会の意識に適用する。すると、物象化によって部分的合理性にとどまっていた現象を、経験の全体性に訴えることによって克服する解読が重要となる。『資本論』によれば、資本が利潤を産出するとだけ見る物象化した見方を克服するには、資本の流通過程の全体が参照されねばならない。ある商品の消費は、別の商品の生産であり、労働力商品の維持再生産は、同時に生活物資の消費であるというふうに、相互に結びついている。そのような全過程は、資本が次々に姿を変えて循環する過程であることになろう。すると、そこに生産過程も含まれる。そうしてこそ、生産手段や労働力の果たす役割の分析が可能になる。
労働者は賃金で生活物資を買い戻さねばならず、そこから賃金水準が決定される。もちろん、その水準は景気動向と共に変動する。通常は労働予備軍(失業者)と労働市場によって、賃金が生活物資の価値以上に高騰することはない。景気が過熱し完全雇用に近づくと賃金はそれ以上に上昇するが、中央銀行による金融引き締めを境に多くの企業が倒産し、失業者が復活し、再び賃金水準は生活必要物資の価値に引き戻されることになる。
他方、企業家がイノヴェーションによって超過利潤を実現した場合、その成果は投資をした資本家のものになる。かくて、資本家による投資がイノヴェーションを達成できれば、労働力が生み出すもの(生産物)と労働力を生み出すもの(つまり労働力を維持再生する生活物資の価値(賃金))の差額が、利潤として資本家のものになるわけである。こうして、利潤の産出は資本の本性という物象化した見方を克服して、生産過程における人間支配の実態から説明されるのである。
さらに、貨幣という価値形態自体も、決して貨幣の自然本性の一つとして物象化して捉えるのではない。商品交換を支える社会構造から、つまりは商品所有者を含む人々の社会的実態から、その流動性(貨幣による購買力)が説明されねばならないのである。単純な商品交換において、その価値が他の商品によって評価される商品の価値形態(相対的価値形態)と、それらを評価する商品の価値形態(等価形態)の区別が出現する。このもっとも単純な価値形態の区別を生み出す原理は、この交換を支える社会的実態(商品所有者たち)を参照することによって見出されねばならない。相対的価値形態と等価形態の区別を生み出すのは、それぞれの商品所有者の社会的地位なのである。つまり商品交換においてゆとりがある所有者の手になる商品が等価形態となり、ゆとりがない所有者の商品が相対的価値形態をとる。ゆとりのない者は、ゆとりのある者の商品交換のイニシアティヴに従う以外にないからである。この価値形態の違いを理解するためには、商品を越えて、その所有者という人間にさかのぼる必要があるのだ。こうしてルカーチにとって、いわゆる価値形態論こそは、物象化を克服して全体性を参照する弁証法の範型を示しているのである。
もしブルジョワ社会が、商品というカテゴリーを社会の隅々にまでいきわたらせる普遍性をもつとしたら、労働力商品である労働者においてのみ商品としての自己認識が社会の普遍的認識になることが可能となるであろう。
ここで重要なことは、かかる全体性への参照が、概念の意味の捉え返し(変容)を可能にすること。つまり、物象化と部分的合理化によって硬化したカテゴリーが、全体性の中で異なる意味を帯びることである。しかも、自分の立場、取るに足らない「特権」に固執して全体性を捉え損なう小ブルジョワ的理論家と違って、プロレタリアートにおいては商品という価値形態を自ら身にまとう事によって、商品経済の全体性の認識が自らの不可避の実存的可能性となる、とされるのである。かくて、ルカーチのようなマルクス主義者にとって、プロレタリアートの立場とは、単なる観察者にとどまらず、自己認識と社会の普遍的認識を重ねざるを得ないところから、認識論的特権性を帯びる特別の実存形式だということになる。それは何らかのポジティヴなものを所有することから獲得した特権ではなく、労働力商品という規定以外いかなる特殊性をも奪われることによって獲得された普遍性なのである。
しかしながら以前にも述べたように、商品貨幣経済が社会の隅々にまで及び、商品という価値形態が社会の一般的認識になるということが成り立つかどうか怪しい。周辺部分において賃労働化され得ない分野を残してゆくのが世界資本主義の常であるばかりでなく、家内労働が商品化され得ない領域を含むのも自明だからである。とはいえ、ルカーチの見立てではプロレタリアートのみが留保なく物象化の運命を一身に体現する所から、社会の普遍的認識へと押しやられることによる認識論的特権性を享受するのである。これはマンハイム流の知識社会学的相対主義(社会的認識を認識者の社会的位置に相対化する立場)を極限化した地点において乗り越える視座を提供するものであった。
ちなみに、このような認識論的特権性の議論は、現存在の特殊な実存可能性が、世界の普遍的認識を可能ならしめる超越論的根拠となるというハイデガーの『存在と時間』の実存論に、重要な示唆を与えた可能性がある(cfゴルトマン)。
もしこのようなルカーチの見立てが成り立つなら、ブルジョワ社会の弁証法は、ただ商品の物神性の解明だけということになろう。そのようなことは信じがたい。第二インターに結集したドイツ労働者の利害は、イギリスの労働者と連帯してドイツとイギリスのブルジョワ同盟に敵対することだけとは限らない。むしろ、自国のブルジョワと連帯して、国際市場でイギリス産業に打ち勝つことかもしれない(ただ、国際競争が激化して戦争にならない限りにおいてであろうが)。
レーニンやウォーラーステインの示唆するように、世界資本主義の発展が不均衡であるなら、資本主義が周辺地域を残しながら発展することは不可避であり、先進地域はその不均等性から構造的に周辺地から、(経済的)搾取というより(暴力的)収奪を行っており、したがって、先進地域の労働者の利害が、半周辺地域の労働者や周辺地域の奴隷たちの利害と一致する経済的必然性はない。戦争を回避するプロレタリア国際主義は、プロレタリアートの利害の一致から(またマルクス・レーニン主義によるその分析から)自動的に流出するものではなく、レーニンのような政治的決断からのみ出てくるものである。国際共産主義運動には確かに、第一次世界大戦に反対したという名誉ある伝統があるとはいえ、それは決してマルクス主義からの自然なまたは合理的な帰結ではなかった。そもそもそれを伝統として尊重するという理論的枠組みすら、マルクス主義には存在しない。総じて伝統や名誉といった観念は、政治の不確実性を重視する保守主義的英知に属するものだからである。
また治安の問題をとっても、経済の問題に還元され得ない。治安の安定は、経済合理性に適うであろうが、それも治安維持にかかる費用が社会の足かせにならない限りであろう。また治安維持の強化が、自由を損ない繁栄に影を落とすようでは、元も子もない。このようなアンチノミーの解決すら、最適解が唯一に決まっているというわけではない。したがって、弁証法の運動が、一方向に進歩を続けるという保証もない。振動や循環を繰り返す可能性もあろう。たとえば広大なモンゴル帝国は、物流コストを下げ、経済発展を促すが、その治安維持コストの増大により、各地方の離反・群雄割拠と内戦を招くかもしれない。そしてまた、内戦が軍事的統一を招来する…という循環。一般に、それらの問題に必ず唯一の解が存在するとは言えないのである。
問題の解が唯一存在するならば、それを見出す英知も存在し得るかもしれないが、政治がそのように主知主義的に理解できるとは限らない。政治が正しい解決を知り、それを制作することであるというのは、政治の技術制作的モデルである。マルクスのフォイエルバハテーゼによると、「これまでの哲学は世界を解釈してきただけ。重要なのは世界を変革すること」である。しかしここでも、「変革」が目的意識的=技術的制作のように考えられていることは明らかである。
古代的美徳の見直し
かくてアレントは、政治活動の独自性を、古代ギリシアを手掛かりに探究することになった。それは、ロマンティックなアルカディアへのノスタルジーによるものではなく、スターリン主義との対決というリアルな必要に基づくものであった。活動は製作と違って、他者を巻き込み不確実性に晒される。したがって、不確実性を削減するために、約束・過去の記憶・権威・法などが不可欠となる。法とは、過去の成功(問題解決のケース)の記憶である。約束は、それを結ぶ個人への信頼に基づく。それゆえここで、人格的要素が重要になる。また信頼し得る人格との友愛が政治活動にとって極めて重要となるのだ。
信頼できる人格とは、阿諛追従を習いとする宮廷の廷臣たち・官僚たちには求むべくもないこと、その心性を支えるのは、いざとなれば身を挺してはせ参じる用意のある何らかの意味での共和国とその独立市民の存在であることは、古代にはよく知られたことであった。だからこそその教育には、実用とはかけ離れて、繰り返し軍事的英雄の伝説が参照されたのである。
マルクス主義は、技術的制作モデルにとらわれているため、これらの要素を無視せざるを得ない。諸個人の行動は、その階級意識から規定されるため、人格的要素が勘案される余地がない。また、過去の記憶は、共有された遺産であるが、マルクス主義はプロレタリアートの所有する遺産を一切取るに足らないものと見なすから、それによって未来に備える知恵も生まれない。むしろその英知は、一切の無所有から(およびそこに由来する脱物象化から)生まれるとされるからである。それは端的に言えば、政治的美徳に対するルサンチマン的見方である。ニーチェによれば、それを史上初めて体系化したのがユダヤ人である。「政治的英知などは、人間には求むべくもない。神のみが未来を予知し得るのだから。したがって、政治的卓越性などは存在しない」。このような観念は、その正しい前半から、誤った後半を導き出すのである。
法の生成は、確実な根拠に基づいてなされるわけではない。たまたまの試行がうまく事態を改善したところから、問題解決の成功事例として記憶されるのである。ということは、ここでの試行は、目的から意味付けられているのではなく、結果から遡って意味を獲得するのである。かかる遡及的意味生成の時間的構造が、活動における意味につきものであるのは、それが活動の不確実性と不可分のものだからである。
スターリン主義の問題点は、単に個人独裁とか権威主義というところにあるわけではない。独裁制は必ずしも民主主義に矛盾しないばかりか、むしろ独裁制に親和的なものである。民主主義は強大な権力集中を可能にする政治制度であり、とくに戦時体制に親和的である。場合によっては、一時的にそれは必要なものでさえある。ローマ人はそのことをよく知っていた。スターリン主義の問題は、未来への本来存在し得ない知識を僭称し、政治的権威に対する信と知とを混同する点にあるのだ。
活動においては、不確実性の中で十分な根拠なく決断せざるを得ない。もともと未来への存在し得ない英知を想定する所から、主知主義的理論構造が極端な権威主義を生み出すことになる。スターリンの英知が想定されるのは、歴史の必然についての知識が可能であるとする極端な実在論的想定に基づくのである。それは、決断力とか勇気のような通常の政治に伴う美徳ではなく、「〜思想」といったところに基づく権威であるが、これは通常の権威主義ではない。通常の権威は、自他ともにそう任じる場合でも、権威者の無謬の知などは想定しない。権威者は、その卓越性が信じられている場合でも、それが知でないのは自明なのである。ところが、スターリンは自らを知と称し、権威とは見なさない。彼らは、権威とか決断のような不合理・不確実な要素を認めることができない。彼らの実在論的・決定論的思考が、その余地を与えられないからである。
政治活動における主知主義的観念は、不確かな根拠に基づく決断とか冒険の余地を残すことができないから、決断が失敗に帰した場合に、その決断を総括することができない。決断が存在しないのであれば、失敗した行動の何を反省したらいいのか全く分からないからである。したがって、遡及して歴史を意味づけることができず、そこから教訓や法を導き出すこともできないのである。
easter1916 at 22:02│Comments(0)│
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