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「潜在成長率の誤解に殺される(前半)」三橋貴明 AJER2020.10.26

    

 

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紛争と災害の人類史 日本の家のドアは、なぜ「外開き」なのか? [三橋TV第317回] 三橋貴明・大石久和・高家望愛


https://youtu.be/7hvDdfRDAYw

三橋貴明氏オンライン講演会1112 のライブ配信(アーカイブ)
https://youtu.be/pGLd-Db3oN4

こども経済教室vol.4。税金の真実。
https://youtu.be/JumLGXyRwwY

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。」

 大石久和先生がご出演された三橋TVで議論していますが、日本人の歴史観はまさに鴨長明の方上記
 歴史は「流れていくもの」と我々は認識し、テレビの歴史番組でもそのように語られます。


 それに対し、ユーラシアの人々にとって、歴史は「蓄積」です。


 「紛争」による身内の死、あるいは自身の死と「隣り合わせ」で暮らしてきたユーラシアの人々は、街を城壁で囲み、いざというときは壁の中に逃げ込み「兵士」となる。
 

 壁の外に残っていると、地平線の彼方からやってきた敵(遊牧民など)に皆殺しにされる。
 

 壁の中で生き残るという「権利」を得るためには、敵と戦い、定められた「公の義務」を果たす必要があった。(さもなければ、壁の中の「市民」は全滅しかねない)


 これは、前回(318回)話していますが、文明を意味する「civilization」が「civil(市民)」からきているのは確実ですが、厳密には「都市の住民」という意味なのでしょう。


 つまりは、市民の「市」が意味するところは、福岡市(三橋滞在中)といった行政区分の「市」ではなく、「壁に囲まれた都市」の「市」なのです。そして、壁の中に「文明」がある。
 

 生き延びるために「壁」を必要とした、いつ外敵に「皆殺し」にされるか分からない人々は、歴史を「蓄積的」に考える。例えば身内が殺された場合、
「なぜ、自分の身内は死んだのか?」
 について徹底的に考え、分析する。その上で、
「もう、身内が敵に殺されることがないようにしよう」
 と、蓄積的に解決策を積み重ねていく。
 

 あるいは、絶対に歴史を忘れない。祖国を滅ぼされたとしても、歴史を子孫に伝え、臥薪嘗胆し、いつの日か「自分たちの国」を取り戻す。(取り戻せないケースの方が多いのでしょうけれども)


(参考) 歴史時事 第十一回「不屈のポーランド」
https://keiseiron-kenkyujo.jp/keiseishiron/#rekishi


 それに対し、我々は「災害列島」の住民です。ユーラシアとは海で隔てられているため、騎馬の大軍が地平線の向こうから襲い掛かってくるといた事態には、ついぞ直面したことがありません。


 代わりに、自然災害により身内を失う。とはいえ、「災害」を恨んだところで仕方がありません。何しろ、「人間」ではないため、復讐ができないのです。


 だから、水に流す。身内の死という悲しみを「河の流れ」へと送り出し、「また新たな人生」を歩もうとしてしまう。
 

 とはいえ、「安全保障」についてまで、「ゆく河の流れは絶えずして」ではダメでしょう、という話。


 何しろ、日本の仮想敵国はユーラシアの典型的な「帝国国家」である中国、いや中国共産党です。彼らは、歴史を蓄積的に考え、日清戦争以降に我が国がアジアの主導的立場に立ったことを、今でも恨みに思っています。


 いわゆる「南京虐殺」といった虚偽の中共プロパガンダに、我々は戸惑います。
「なぜ、そんな昔のことを、今更言ってくるのだろうか?」
 

 彼らにとって、歴史は「ゆく河の流れ」ではなく、蓄積なのです。しかも、所詮はプロパガンダですあから、使える「ネタ」は何でも(捏造してでも)利用します。

 

【三橋貴明の音声歴史コンテンツ 経世史論】

特別コンテンツ「歴史に魅せられて、myが聞いてみた~第一回 歴史時事編~」公開中!

http://keiseiron-kenkyujo.jp/keiseishiron/

 

 あるいは、防災安全保障。


 特に、現在の日本各地における「災害による身内の死」は、これは「人災」です。何しろ、防災投資を拡大していれば、防げた「死」が少なくないのです。

川辺川ダム、流水型建設 国交相了承
 熊本県の蒲島郁夫知事は20日、7月の九州豪雨で氾濫した球磨川の治水対策として、支流の川辺川に「流水型ダム」を建設するよう赤羽一嘉国土交通相に要請した。赤羽氏は「しっかりとスピード感を持って検討に入る」と述べ、要請を了承。2008年に蒲島知事が「白紙撤回」し、翌年、旧民主党政権により中止が決まったダムが流水型で建設されることが確実になった。(後略)』

 しつこいですが、08年に蒲島知事が「民意」を受け、ダム建設を白紙撤回したことは、これは仕方がない話です。


 とはいえ「ダムによる治水を最大限まで追求する」と明言していたにも関わらず、事実上「放置」したこと。この不作為の政治責任は採るべきです。


 あるいは、蒲島知事には、せめて「脱ダム論」「コンクリートから人へ」といった公共投資否定論が「正しかったのか、間違っていたのか」の議論の口火を切って欲しい。
 

 1997年をピークとした、その後の公共投資削減は、国民を殺した。確かに「災害」による死ではありますが、97年以降の災害死の多くは「緊縮財政」「脱ダム論」といった言論を展開した政治家、官僚、学者、テレビのコメンテータなど、「犯人」が明らかなのです。


 それにも関わらず、またもや過去の間違いについて河に流し去り、無かったこととしてしまう。
 

 となると、事態が改善することは決してなく、公共投資否定論は続き、国民が災害で死に続ける。
 

 この愚かな「言論空間」が、日本人の歴史的な特徴によるものだったとしたら・・・・。
 

 絶望感が半端ありませんが、それでも「語る」しかありません。わたくしは日本人として生まれたことを嬉しく思い、祖国に誇りを持っていますが。「ゆく河の流れは絶えずして」の歴史観からは、いい加減に脱却しなければなりません。


 さもなければ、過去の緊縮の反省が生まれることは決してありません。結果的に、緊縮の転換も実現せず、逆に延々と緊縮路線が続き、国民が災厄を被っても「水」に流され、やがては亡国に至ることになります。間違いなく。
 

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