西洋化への反発が起きたスエズ運河沿いの街

 

西洋近代化にどう対応するか。西洋の技術を学びながら、いかに自己のアイデンティティーを守るか。一つの対応は全面的な受け入れだが、自己の伝統へ回帰し西洋と距離を置く選択もある。ムスリム同胞団を創設したハッサン・アル・バンナーの道だ。

 

1906年にエジプトはカイロの北西マフムーディーヤでバンナーは生を受けた。彼はカイロの名門アル・アズハル神学校で勉強した父からイスラムへの手ほどきを受け、やがてカイロに出てイスラムとアラビア語文法を修めた。学業を終えるとイスマイリアの小学校に赴任。イスマイリアはスエズ運河地帯の中心都市でイギリスの中東支配の拠点である。異教徒の国イギリスが運河地帯を占領している事実に直面したバンナーはムスリム同胞団を結成する。

 

指導者バンナーを含めたった7人の組織であったが、その教えはエジプト大衆の心を捉えた。バンナーはシャリア(イスラム法)に基づく統治の復活を説いた。預言者ムハンマドの時代を理想の黄金時代と信じる人々は、シャリアからの逸脱がイスラム世界の没落の背景にあると認識する。逸脱の前の時代への回帰、つまりシャリアに基づく政治を良しとした。その実現に尽くすイスラム復興運動こそ急激な近代化による社会と経済の激変から人々を救う手段とバンナーは考えた。個人が立派なムスリムになり、個人が立派なムスリムの家庭を作り、社会をイスラム化し、最後に政治をイスラム化する。下からの積み上げで政治を変えようとする考えは大衆の心に届いた。

 

当初は運河地帯で活動していたが、1932年に本部をカイロに移す。その頃には数十の支部を持つ組織へと成長。1940年代には二千の支部と数十万の団員と同数のシンパを得ていた。

 

冬の時代と春の到来 存在感を増すムスリム同胞団

 

1948年の第一次中東戦争、イスラエルの成立を巡る戦争で同胞団はパレスチナ人を支援するため義勇兵を派遣した。アラブ各国の正規軍がだらしなく敗れたのに対し、同胞団員はよく戦い評価を高めた。だが戦いが終わった翌年の1949年にバンナーは暗殺される。政治参加を進める同胞団を警戒した政府当局の仕業とされる。

 

バンナーの死後エジプトは急展開を見せた。1952年にナセルの自由将校団がクーデターを敢行。これが成功して政権を奪取(エジプト革命)。指導者を失った同胞団はナセルによる非合法化と厳しい弾圧を受けた。同胞団の活動を停滞させたのは弾圧ばかりではない。第二次中東戦争でスエズ運河の権益をイギリスから奪ったナセルが絶大な支持を集めたのだ。ナセルはエジプトの国民的な英雄となり、アラブ世界全体に影響力を及ぼすカリスマ指導者となった。この流れにあって同胞団は身を潜めるか、アルジェリアや北イエメンなど海外に散って活動した。

 

だが国際情勢の変化は激しい。1967年、第三次中東戦争が勃発し、イスラエル軍がナセルのエジプトなどのアラブ軍を6日間で打ち破る。ナセルの権勢はこれで地に落ちた。ナセルに懸けた夢を失った人々が次にすがったのはイスラム回帰だった。最後に頼ることができるのは、伝統に根ざした思想のみだったというわけである。ムスリム同胞団は息を吹き返す。1970年にナセルが世を去り後継者となったサダトは、左翼勢力の力と均衡させるために同胞団に活動の再開を許した。冬の終わりである。

 

同胞団は社会の各分野に影響力を浸透させた。その活動が目立ったのは医師会、弁護士会、技術者組織、科学者組織、報道者会など、いずれも政治的に活発な専門家組織だった。1980年代には組織の評議員などを数多くの同胞団メンバーが占めるようになり、同胞団は議会選挙に進出した。

 

同胞団の組織と影響力は国境を越えた。アラブ各国に影響を受けた組織が成長した。最も有名なのはパレスチナ人の組織ハマスである。ハマスはイスラエル占領下のガザ地区を統治し、アラファトが率いたファタハと主導権を争うまでの勢力に成長した。

 

そもそもイスラム復興運動が黄金時代と見なす預言者ムハンマドの時代には、全ての信徒が預言者の下にウンマ(ムスリムの共同体)を構成していた。イスラム復興運動は本来的に国境を越えるエネルギーを内包しているのだ。実際、同胞団は積極的に対外宣伝を行っている。同胞団の影響を受けた組織はシリア、ヨルダン、クウェートなどに展開している。過激派もいるが、バンナーの描いたシャリアによる統治の再現という夢は、現代資本主義社会が行き詰まりを見せるなかでイスラム世界全体に広がっている。

 

-了-