2020年09月13日
大坂なおみ選手の快挙
大坂なおみ選手が、全米オープンで再度優勝を果たした。おめでとう!
今回の優勝は、二年前の壮挙にもまして喜ばしい。彼女は、7つの試合に、不当に虐殺された黒人の名を記したマスクをつけて現れ、敢然とBLM運動に連帯することを選んだ。くそ右翼たちから多くの憎悪を招くことを少しも恐れずに。
たちの悪い愚か者たちが、「スポーツに政治を持ち込むな」という金切り声を挙げる中、彼女は「人権の問題だ」と反論した。右翼たちには、この反論の意味さえ理解できない。とりわけ、「セレブたち」が政治的イシューにタッチしないことが身過ぎ世過ぎに有利だ、と考えられているわが国の文化風土では、人権のために闘うことは、被害者のみならず万人の義務である(イェーリンク)ことが理解されないからである。オリンピックをはじめあらゆるスポーツ・文化・芸術が、政治と無縁でありうるわけはないという常識を、ここで繰り返す必要があるだろうか?
今回、とりわけ印象的だったのは、優勝インタヴューで「マスクで何を伝えたかったのか?」という間抜けな質問に対して、「あなたはどんなメッセージを受け取ったのか?」と訊き返したことである。この問題に対して、傍観者でいることはできない。あなたはこれについてどう思うのか?あなた自身はどう行動するのか?
観客も報道者たちをも巻き込んだパフォーマティヴな発話なのだ。そこに議論を巻き起こすことに比べれば、選手個人のメッセージなど、いかほどの重要性もないのである。クズ右翼たちの金切り声自身が、そのことを実証している。ここには大坂なおみ選手のマチュアーな叡智が輝いている。
今回の優勝は、二年前の壮挙にもまして喜ばしい。彼女は、7つの試合に、不当に虐殺された黒人の名を記したマスクをつけて現れ、敢然とBLM運動に連帯することを選んだ。くそ右翼たちから多くの憎悪を招くことを少しも恐れずに。
たちの悪い愚か者たちが、「スポーツに政治を持ち込むな」という金切り声を挙げる中、彼女は「人権の問題だ」と反論した。右翼たちには、この反論の意味さえ理解できない。とりわけ、「セレブたち」が政治的イシューにタッチしないことが身過ぎ世過ぎに有利だ、と考えられているわが国の文化風土では、人権のために闘うことは、被害者のみならず万人の義務である(イェーリンク)ことが理解されないからである。オリンピックをはじめあらゆるスポーツ・文化・芸術が、政治と無縁でありうるわけはないという常識を、ここで繰り返す必要があるだろうか?
今回、とりわけ印象的だったのは、優勝インタヴューで「マスクで何を伝えたかったのか?」という間抜けな質問に対して、「あなたはどんなメッセージを受け取ったのか?」と訊き返したことである。この問題に対して、傍観者でいることはできない。あなたはこれについてどう思うのか?あなた自身はどう行動するのか?
観客も報道者たちをも巻き込んだパフォーマティヴな発話なのだ。そこに議論を巻き起こすことに比べれば、選手個人のメッセージなど、いかほどの重要性もないのである。クズ右翼たちの金切り声自身が、そのことを実証している。ここには大坂なおみ選手のマチュアーな叡智が輝いている。
easter1916 at 16:05│Comments(7)│
│時局
この記事へのコメント
1. Posted by 御坊哲 2020年09月17日 11:02
>たちの悪い愚か者たちが、「スポーツに政治を持ち込むな」という金切り声を挙げる中、彼女は「人権の問題だ」と反論した。
まさに同感です。人間が人間として扱われない。この現代において、そのような状況が厳然としてある。そのことに対して憤りを感じない方がどうかしている。彼女の感性はまっとうなものと感じます。
インタビュアーに対する、「あなたはどんなメッセージを受け取ったのか?」という切り返しについては、彼女がこの問題を真摯にとらえ訴えていると感じ入りました。
まさに同感です。人間が人間として扱われない。この現代において、そのような状況が厳然としてある。そのことに対して憤りを感じない方がどうかしている。彼女の感性はまっとうなものと感じます。
インタビュアーに対する、「あなたはどんなメッセージを受け取ったのか?」という切り返しについては、彼女がこの問題を真摯にとらえ訴えていると感じ入りました。
2. Posted by tajima 2020年09月18日 02:17
御坊哲さま
大坂なおみ選手の勇気には、感心させられます。もちろん、人権の闘ひは、万人の義務ではありますが、それが誰にでもできるわけではありません。大きな試合を前にして、何よりも精神の集中が必要な時、彼女はあえてBLMの運動によりそふ道を選びました。結果的に、そのことは彼女の集中力をそぐどころか、かへって力を与へました。かつてなら諦めてしまってもいいほどのピンチに、彼女が踏みとどまって輝かしい大逆転劇を演じたことは、劇やアニメーションの世界でもなければ想像し得ないことでした。彼女の闘ひに自分自身の闘ひを重ねて、手に汗して見守ってゐた多くの人々がゐるのを彼女は感じていたに違ひありませんし、それが絶体絶命の孤立無援の中で彼女を支へたこともあったでせう。この孤独な人々同志の連帯に、深く心を打たれないわけにはいきません。
大坂なおみ選手の勇気には、感心させられます。もちろん、人権の闘ひは、万人の義務ではありますが、それが誰にでもできるわけではありません。大きな試合を前にして、何よりも精神の集中が必要な時、彼女はあえてBLMの運動によりそふ道を選びました。結果的に、そのことは彼女の集中力をそぐどころか、かへって力を与へました。かつてなら諦めてしまってもいいほどのピンチに、彼女が踏みとどまって輝かしい大逆転劇を演じたことは、劇やアニメーションの世界でもなければ想像し得ないことでした。彼女の闘ひに自分自身の闘ひを重ねて、手に汗して見守ってゐた多くの人々がゐるのを彼女は感じていたに違ひありませんし、それが絶体絶命の孤立無援の中で彼女を支へたこともあったでせう。この孤独な人々同志の連帯に、深く心を打たれないわけにはいきません。
3. Posted by ジリ 2020年10月03日 23:49
今般の日本学術会議に起こったことに衝撃を受けました。
そして、文化的なものは政治と無縁であるべきという通念があるようであるにもかかわらず、政治が文化的なもの(しかも学問!)に干渉することを見過ごそうとする人々が多数いることに異常さを感じます。
今回の事件について、私は下記ブログの記事が非常に参考になりました。
https://chez-nous.typepad.jp/tanukinohirune/2020/10/scj-issue.html
引用します。
「日本に限ったことではありませんが、現代世界の政治的指導者の多くは、あるべき国家についての明確なビジョンを持っていません。興味がないのです。彼らに興味があるのは自己の政権の維持です。そのためには何でもします。」
「現代の世界を分断しているのは、イデオロギーの対立ではありません。イデオロギーと、イデオロギーの欠如との対立です。どんな形であれ、世界や国家がこうなればいいのにという何らかのビジョンを持つ人々と、そんなものに興味はなく、もっぱら自己の利益と権力維持のために最適な行動を取る人々との対立です。」
→
そして、文化的なものは政治と無縁であるべきという通念があるようであるにもかかわらず、政治が文化的なもの(しかも学問!)に干渉することを見過ごそうとする人々が多数いることに異常さを感じます。
今回の事件について、私は下記ブログの記事が非常に参考になりました。
https://chez-nous.typepad.jp/tanukinohirune/2020/10/scj-issue.html
引用します。
「日本に限ったことではありませんが、現代世界の政治的指導者の多くは、あるべき国家についての明確なビジョンを持っていません。興味がないのです。彼らに興味があるのは自己の政権の維持です。そのためには何でもします。」
「現代の世界を分断しているのは、イデオロギーの対立ではありません。イデオロギーと、イデオロギーの欠如との対立です。どんな形であれ、世界や国家がこうなればいいのにという何らかのビジョンを持つ人々と、そんなものに興味はなく、もっぱら自己の利益と権力維持のために最適な行動を取る人々との対立です。」
→
4. Posted by ジリ 2020年10月03日 23:50
→私は前々から、現在主に「保守」と呼ばれる人々が日本人の生活や文化を守ろうとしているようには見えない(むしろ壊してすらいる)ことに疑問を感じていました。しかしここで「保守」というのが「自分たちの権力の保守」だというならそれも納得がいきます。
前述の文化から政治へと政治から文化への口出しに対する反応の非対称性も、無思想の徹底(民衆の肌感覚では思想アレルギー)という観点からすれば理解もできます。
しかし、これは本当に最低だとしか言えません。思想がなければ批判もなく、批判がないところに生まれるのは無際限の暴力です。ニヒリズムやシニシズムが広がっているのは分かっていましたが、それがまかり通るほど人々が貧しくなっていることに怒りと悲しみを感じます。
先生は以前から日本の政治状況の危機を訴えられていました。私は今更ながらにそれをはっきりと実感したのですが、先生はこの件についてどうお考えでしょうか?
前述の文化から政治へと政治から文化への口出しに対する反応の非対称性も、無思想の徹底(民衆の肌感覚では思想アレルギー)という観点からすれば理解もできます。
しかし、これは本当に最低だとしか言えません。思想がなければ批判もなく、批判がないところに生まれるのは無際限の暴力です。ニヒリズムやシニシズムが広がっているのは分かっていましたが、それがまかり通るほど人々が貧しくなっていることに怒りと悲しみを感じます。
先生は以前から日本の政治状況の危機を訴えられていました。私は今更ながらにそれをはっきりと実感したのですが、先生はこの件についてどうお考えでしょうか?
5. Posted by tajima 2020年10月04日 06:36
ジリさま
コメント恐れ入ります。またhirunenotanukiさまのブログ拝見いたしました。おおむね妥当で賛同できるご意見だと思ひます。
ただ、「理念のある人とない人の闘ひ」といふのは、一面で正しくはあるものの、的確な表現でせうか?確かに理念や建前に対して、妙にシニカルな人々が巾をきかせてゐるのが事実でせう。でも、イデオロギー対イデオロギーの欠如の対立と言ってしまへば、イデオロギーの欠如の方がましと考へる人も多いでせう。それには一理あるのです。何か明確な理念を目指す政治は、当事者の自由な主体性や創意工夫に逆行しがちだからです。
今蔓延してゐるシニシズムに対して、理念やイデオロギーで対抗することはできません。ただ、言葉を尊重し、説明責任を追及し、事実を正確に記憶することで対抗するしかない。文化や学問に対する野蛮人たちの怨恨が燃え上がるとき、我々は逆説的にも文化保守主義の立場に立つことを余儀なくされます。我々の武器は、言葉や学問や伝統の中にしかないからです。しかし、反乱する賤民たちの側にも一分の理があることも忘れてはなりません。それは「文化」がしばしば貧民の抑圧のために利用されてきたからであり、その意味で文化の中には野蛮の血が混入してゐるものだから。
さういふわけで、我々の戦略はしばしばダブルバインド状況に置かれます。その意味で、大坂なおみさんのすばらしいリターンエースが大いに参考になるのです。それは自分の旗幟を鮮明にすることよりもむしろ、困惑を引き起こし、できれば相手に恥をかかせてやるものである必要があるのですから。
コメント恐れ入ります。またhirunenotanukiさまのブログ拝見いたしました。おおむね妥当で賛同できるご意見だと思ひます。
ただ、「理念のある人とない人の闘ひ」といふのは、一面で正しくはあるものの、的確な表現でせうか?確かに理念や建前に対して、妙にシニカルな人々が巾をきかせてゐるのが事実でせう。でも、イデオロギー対イデオロギーの欠如の対立と言ってしまへば、イデオロギーの欠如の方がましと考へる人も多いでせう。それには一理あるのです。何か明確な理念を目指す政治は、当事者の自由な主体性や創意工夫に逆行しがちだからです。
今蔓延してゐるシニシズムに対して、理念やイデオロギーで対抗することはできません。ただ、言葉を尊重し、説明責任を追及し、事実を正確に記憶することで対抗するしかない。文化や学問に対する野蛮人たちの怨恨が燃え上がるとき、我々は逆説的にも文化保守主義の立場に立つことを余儀なくされます。我々の武器は、言葉や学問や伝統の中にしかないからです。しかし、反乱する賤民たちの側にも一分の理があることも忘れてはなりません。それは「文化」がしばしば貧民の抑圧のために利用されてきたからであり、その意味で文化の中には野蛮の血が混入してゐるものだから。
さういふわけで、我々の戦略はしばしばダブルバインド状況に置かれます。その意味で、大坂なおみさんのすばらしいリターンエースが大いに参考になるのです。それは自分の旗幟を鮮明にすることよりもむしろ、困惑を引き起こし、できれば相手に恥をかかせてやるものである必要があるのですから。
6. Posted by ジリ 2020年10月05日 00:06
蒙を啓かれた思いがします。
確かに「イデオロギー対イデオロギーの欠如の対立」という表現は適切ではなかったように思います。私が「イデオロギーの欠如」ということで考えていたのは「自己一貫性(integrity)の欠如」であったと気づかされました。私が言うべきだったのはむしろ「倫理対倫理の欠如」だったのでしょう。
ダブルバインドという表現をされましたが、倫理対倫理の欠如の対立において、倫理側に立つ者には別のダブルバインドもあるように思います。つまり、相手側の倫理性のなさを指弾しながら、同時に相手の倫理性を信じなければならないということです。体面からではない恥を知ることができるのは、何らかの倫理性を持つからでしょう。我々は、彼らが持っているはずの倫理性にどうにかして訴えかけてそれを呼び覚まさなければならない。途方もないように思いますが、それができないことには勝利などありえないのでしょう。そしてそのためには、我々自身がいい加減な態度でいてはいけないのでしょうね。
>「文化」がしばしば貧民の抑圧のために利用されてきた
というのは仰る通りです。私がシニシズムの広がりに悲しみを覚えるのは彼らがそうした抑圧の許にあったからだろうと思うからです。いつだったか先生が仰ったことに、人を信頼したことがない人には信頼なんて存在しないように見えるということがあったと記憶しています(あやふやな記憶ですが)。彼らが例えば正義や公正など存在しないと言うのも、実際彼らが正義や公正というものに触れたことがないか裏切られたということの裏返しだろうと思います。それは、友情なんて存在しないと言う人が悲しい人であるのと同様に悲しむべきことです。
確かに「イデオロギー対イデオロギーの欠如の対立」という表現は適切ではなかったように思います。私が「イデオロギーの欠如」ということで考えていたのは「自己一貫性(integrity)の欠如」であったと気づかされました。私が言うべきだったのはむしろ「倫理対倫理の欠如」だったのでしょう。
ダブルバインドという表現をされましたが、倫理対倫理の欠如の対立において、倫理側に立つ者には別のダブルバインドもあるように思います。つまり、相手側の倫理性のなさを指弾しながら、同時に相手の倫理性を信じなければならないということです。体面からではない恥を知ることができるのは、何らかの倫理性を持つからでしょう。我々は、彼らが持っているはずの倫理性にどうにかして訴えかけてそれを呼び覚まさなければならない。途方もないように思いますが、それができないことには勝利などありえないのでしょう。そしてそのためには、我々自身がいい加減な態度でいてはいけないのでしょうね。
>「文化」がしばしば貧民の抑圧のために利用されてきた
というのは仰る通りです。私がシニシズムの広がりに悲しみを覚えるのは彼らがそうした抑圧の許にあったからだろうと思うからです。いつだったか先生が仰ったことに、人を信頼したことがない人には信頼なんて存在しないように見えるということがあったと記憶しています(あやふやな記憶ですが)。彼らが例えば正義や公正など存在しないと言うのも、実際彼らが正義や公正というものに触れたことがないか裏切られたということの裏返しだろうと思います。それは、友情なんて存在しないと言う人が悲しい人であるのと同様に悲しむべきことです。
7. Posted by tajima 2020年10月05日 06:14
ジリさま
倫理については仰る通りだと思ひます。敵の倫理性に期待せざるを得ないことこそ、我々の弱みなのですが、同時に我々の誇りではないのでせうか? 我々は、その戦ひにおいて、古い美徳に訴へる必要があるでせう。私が強調したいのは、このやうな場合の旧世代の美意識の重要性なのです。滅びゆくものの代表として、その運命を知りつつ、己れの伝統の価値に殉じつつその高貴な栄光の最後の輝きを全うするやうな心性が、来たるべき時代へのバトンをつなぐことがないでせうか? このやうな例として、トクヴィル、メンデルスゾーン、トーマス・マンを挙げることができるでせう。
メンデルスゾーンの場合だけ、説明が必要かもしれません。しばしば保守的と見られがちな彼の音楽は、その時代の反ユダヤ主義的潮流抜きには理解できません。彼の闘争こそ文化保守主義的な戦略だったのだと思ひます。そこには同時代のロマン主義者のやうな民族主義的要素が見られません。彼はバッハとモーツァルトの後継者なのです。ここに反時代的な貴族的なものを聴き取ることができます。
倫理については仰る通りだと思ひます。敵の倫理性に期待せざるを得ないことこそ、我々の弱みなのですが、同時に我々の誇りではないのでせうか? 我々は、その戦ひにおいて、古い美徳に訴へる必要があるでせう。私が強調したいのは、このやうな場合の旧世代の美意識の重要性なのです。滅びゆくものの代表として、その運命を知りつつ、己れの伝統の価値に殉じつつその高貴な栄光の最後の輝きを全うするやうな心性が、来たるべき時代へのバトンをつなぐことがないでせうか? このやうな例として、トクヴィル、メンデルスゾーン、トーマス・マンを挙げることができるでせう。
メンデルスゾーンの場合だけ、説明が必要かもしれません。しばしば保守的と見られがちな彼の音楽は、その時代の反ユダヤ主義的潮流抜きには理解できません。彼の闘争こそ文化保守主義的な戦略だったのだと思ひます。そこには同時代のロマン主義者のやうな民族主義的要素が見られません。彼はバッハとモーツァルトの後継者なのです。ここに反時代的な貴族的なものを聴き取ることができます。