51WjCO6v1jL._SL160_
本書は「国連のグテーレス事務総長は環境デーで『プラスチックごみで地球を汚すのはやめよう』と呼びかけた…」と格調高く始まり、海洋プラスチックごみがいかに困難な問題であるかを世界各地の例で明らかにする。ここまではよくある話だが、最後の第4章の2「プラスチックごみは大問題なのか」に至って、トーンがこう変わる。
日本で出るプラスチックごみの7割が焼却処分されている。[…]焼却処分は、埋め立てなどで処分することになる最終的なごみの容量を減らすには有効な手段だ。外国へのプラスチックごみの輸出を含め、ごみ処理の正規ルートに乗らないプラスチックを減らすことにつながる可能性もある。
こう書いてプラスチック循環利用協会の資料を紹介するが、そこにはこの問題の超簡単な解決策が書かれている。プラスチックは全部燃やせばいいのだ。

本書も「リサイクルには焼却にくらべて多くの費用がかかる」と認める。レジ袋をリサイクルするコストは69.8円/kgだが、焼却すれば30.5円ですむ。リサイクル作業で発生するCO2を含めると、焼却したほうが環境負荷は低い。

プラスチックは自然界で分解しないと錯覚している人が多いが、それは常温での話だ。火をつけてみればわかるが、プラスチックは燃えてCO2と水に分解する。それがいけないというなら、今回のレジ袋有料化で対象外になっている生分解性プラスチックも、燃えるのは同じだ。材料が木だというだけである。

ごみの9割は発電などで熱利用しているが、生ごみだけでは高温が出ないので、重油を混ぜている。プラスチックを燃やさなかったら重油を燃やすだけで、CO2排出量は変わらない。そもそもプラスチックはもとは石油なのだから、石油を燃やすのと同じだ…

と自問自答するうちに、本書も最後は「焼却処分がもっとも合理的だ」と認めてしまう。そんな簡単な解決策が、なぜ実行できないのだろうか?

ごみ分別の生み出した巨大な利権構造

一つの原因は、1990年代のごみ処理技術でプラスチック=燃えないごみという固定観念ができたからだ。昔はポリ袋でごみを出すのも禁止で、自治体の指定する透明な袋で出さないといけなかった。自治体によっては10種類以上に分別することが義務づけられ、それを回収業者がリサイクルすることになっている。

直観的にはリサイクルで資源が有効利用できるように思えるが、たとえばペットボトルを洗浄して粉末にし、それを再成形して合成繊維などにするコストはほぼプラスマイナスゼロで、それ以外のごみはマイナスになる。排出するCO2も、リサイクルの工程にかかるエネルギーを考えると熱回収のほうが少ない。

例外はアルミ缶だけで、これはアルミ精錬にかかる電気代が高く国内では精錬できないので、空き缶を再成形するコストのほうが安い。

もう一つの原因は、こういう昔の技術を前提にしてごみ回収産業ができてしまったため、そこに大きな利権が発生していることだ。ほとんどの燃えないごみは採算がとれないので、リサイクル業者は自治体から補助金をもらっている。これが既得権になり、今さら燃やすわけには行かないのだ。

産廃も企業が処理するのが原則で自治体に持ち込んではいけないが、膨大なプラごみを捨てる場所がない。中国も引き取らなくなったので、それを海などに不法投棄する産廃業者が後を絶たず、これも利権になってしまった。

役所にとって大きいのは、ヨーロッパの動向だろう。ヨーロッパは1990年代からプラスチックの禁止を進め、レジ袋やストローなどを禁止している。こういう「先進国」に日本も追いつけ、という環境団体の圧力に負けて、経産省も動き出したわけだ。

ところが皮肉なことに、日本では環境団体が「プラスチックを低温で燃やすとダイオキシンが出る」と騒いだことから、1999年にごみ焼却炉の耐熱基準が800℃以上に規制され、プラスチックごみを燃やしても問題なくなった。

この耐熱基準は高コストだが、全国の自治体で新設する焼却炉はすべてこの基準を満たすことになったため、1兆円以上かけて焼却炉の改造が行われた。実際にはごみ焼却炉から出るダイオキシンは人体に影響なく、この耐熱基準は過剰性能だったのだが、この法改正は新日鉄などの鉄鋼メーカーが推進し、ここにも巨額の利権が生まれた。

そんなわけで不合理な分別収集を30年続けているうちに、それが年間2兆円の産業になり、多くの業者がぶら下がる構造ができてしまった。彼らは「リサイクルで地球環境を守る」という建て前論を掲げて環境団体と結託し、その利権を守っているのだ。

本書もその構造に少しふれているが、最後は「プラごみを減らすのは消費者の心がけだ」という陳腐な訓話になってしまう。それはそうだろう。この巨大な利権構造を支えているのは、無知なマスコミのプラごみキャンペーンだからである。