2020年07月17日
クリプキ再論――誤同定による誤りから免れていること
クリプキのパラドクスについて、概念的思考(悟性)と直観(感性)とを区別したカント的な立場での解決を模索してみた。ポイントは、概念の適用条件を知るために、「ここ」と「今」という直観的概念に依存せざるを得ないが、それらの理解は通常の概念と違って、言葉の適用条件の習得に基づくものではない、という事である。
誤同定を通じての誤りを免れていること
我々の概念習得は、通常は言葉の適用条件(真理条件)の習得であると見られている。
しかし、そうでない概念も存在する。「ここ」「今」「私」などの指標詞などがそうである。エヴァンズによれば、これらの概念の意味理解は、その使用法の習得に尽きるわけではない。エヴァンズは「ここ」の分析を通して、その理解が非概念的な情報網の活用に基づくことを示した(それについては、すでに何度か紹介したので繰り返さない。たとえば2017年9月14日のエントリー「ライプニッツ再論―G.Evansと共に」参照)。
指標詞に準じて自己中心的空間(我々の行為空間)の特徴づけの概念(遠近、前後、左右、上下など)も同様である。
私の考えでは、「私」をめぐる理解とりわけ私の意図的行動をめぐる理解についても似たようなことがある。それらは、概念化に先んじて、行動能力の中に折り込まれた自己知を形成している。そして、プリミティヴな行動から、精緻に構成された高度な運動能力派の連続した発展の見かけから、「自由意志」の錯覚が容易に生じることについても、すでに論じた(6月30日のエントリー「意図的行動の自己知――「自由意志の起源」参照」。
ここでは、これら指標詞の使用が「誤同定による誤りから免れている」という特徴を帯びることについて論じてみよう。この特徴は、概念の適用条件の習得に基づかず、情報の活用によって同定がなされることによると思われるのである。たとえば、「私は歯が痛い」という命題は、私の誤同定によって偽となることはあり得ない。誰かの歯が痛いのだが、それは私ではなかったことによって誤ることはない。「私は靴のサイズが26センチである」は、私の足の誤同定によって偽となることもあろう。私を含む複数の人の足跡を見て、誰かの足が26センチであるのだが、それを私の足と誤同定することが起こり得る。
ところが、このような観察と推論によらず、自分にだけアクセス可能な情報に基づいて判断される命題では、誤同定による誤りは起こり得ないのである。
「ここ」についても同様。「ここは暗い」が、どこかが暗いのだが、その場所をここ取り違えたために偽となるという事はない。それは、ここに対して情報網を持ち、それによって直知の指示がなされるからである。
「ここ」を「私がいる場所」とか「発話者がいる場所」と言い換えることができるだろうか?そのような言い換えでは、「ここ」の意味のすべてを捉えることはできない。「発話者がいる場所」とか「私がいる場所」を誤同定することが実際可能であろう。それに対して、「ここ」を誤同定することはいかなることであろうか? ここがどのようであろうと、それを誤同定することはあり得ない。 「私がいる場所」などが誤同定されるのは、私がどこにいるかという信念に基づいて、その場所について何かが語られた場合である。それは概念によって特定の場所が特定されるので、誤同定が起こり得る。
これに対して、「ここ」は非概念的理解であり、そこから概念の適用条件を取り違えることによる誤りを免れている。このことは、「ここ」のクワス的理解があり得ないことを帰結する。クリプキのクワス的逸脱事例は、いずれも有限の概念適用事例から無限な概念の適用能力を規定できないことから来ているからである。仮に、「ここ」が通常は我々と同様の適用条件を持つものとして理解しているのであるが、特別の日(正月とかクリスマスの日)にだけは北極点を指示するものとして理解してしまっているクワス主義者を想定することができるだろうか? このような理解に基づいて言葉を習得することはできない。たとえば「暑い」という概念を習得しようにも、絶えず北極点事例が紛れ込んできて我々の理解を撹乱してしまうからである。
他方、「私のいる場所」は、「ここ」に近い意味を持つものと理解する路もあるかもしれない。それは、この表現を「そこから私が環境世界にかかわっている場所」という意味に理解する場合である。その場合、「私がいる」という事自体が、世界との関係のとり方が私の存在にとって欠くことのできないことであるという含意を持つことになろう。一般の物体がある場所を占めるというような関係とは違うのだ。ちょうど低気圧が周囲の空気とのかかわり抜きに存在し得ないように、それゆえ周囲の風とか雨とかと切り離し得ないように、私の存在も、環境世界に対する情報的交流抜きにあり得ない。それが私の知覚や行動である。かかる交流抜きに私の存在は有り得ない。ちょっとハイデガーのDaseinとdaの関係みたいに、私の存在がここにおける開け(自己中心的空間への情報的関係づけとしての空開性Einraumung――ちなみにハイデガーは、事物に空間的場所を与えること、空間的指示を可能にすることを空開性と呼ぶSein und Zeit p-111)と不可分にあることが、「私のいる場所」のかかる理解に含意されている。この場合には、「私のいる場所」は、非概念的に理解されている、つまり「ここ」と同様に理解されているのである。
しかし、もしそうであるならば、「私の場所」における「私」がデカルトのコギトの主体のように魂であることはできない。つまり、魂としてまず存在し、しかる後にここに据え置かれたわけではないのだ。逆に言えば、デカルト的コギトであれば、周囲の環境との情報リンクを取り結ぶことができない。なぜなら、その場合「私」と「私のいる場所」の関係は全く偶然のことになってしまうからである。
「私」がデカルト的に捉えられる場合、「私のいる場所」は誤同定可能なものとなり、誤同定不可能性という「ここ」との共通性を失う。これはちょうど、映画館の座席に座りながら画面を眺めて「そこ」がどこなのか推測するようなものである。他方、私の身体は背中や尻で座席を感じており、隣の人の息遣いや館内の空気を感じており、それらの情報で構成された「ここ」の指示は誤同定不可能である。
かかる次第に相成るのは、コギトの私が身体を通じて環境と取り結ぶ情報網抜きで考えられた抽象の産物だからであり、そんな「私」であれば、その後いかにして環境世界に自己中心的空間を据えることができるか理解できない。
かくして、このような「私」は、夢の中で蝶に変身していても、魂としての同一性を保持し、指示同定に成功していることになる。しかし、蝶になっている全体が夢の内容なのであるから、そこにおける蝶である「私」も指示しているわけでも、されているわけでもないのである。せいぜい指示されていると想像されているにすぎない。
「私」や「ここ」の指示は、概念的なものであり得ず、身体を使った情報の活用に基づくこと、それこそが他の概念の習得を可能にするものであるという事が重要である。
かくて、クリプキのパラドクスの基本に合った概念使用の取り違えの可能性自体、取り違えようのない(誤同定の可能性を免れた)非概念的行動能力と自己知に基づくこと、いかなる概念もこの能力の拡大でなければならない以上、多くのクワス的理解が排除されることが期待される。
たとえば、実体概念としてどのようなものを採用すべきかについては、悟性の能動性にいくつもの選択肢が開かれてあるだろうが、どんなものでもよいというわけではない。たとえば、かつて私は天候の説明のために「低気圧」という実体概念を説明項に取ることも「寒(暖)気団」を実体とすることもできると論じたことがある(『哲学史のよみ方』p−146)。電子や陽子を実体とすることは適切だろうが、フロジストンやエーテルは適切ではない。
とはいえ、どんな実体でも一応は想定可能なのか、といえばそうではない。たとえば、瞬間的に空間を移動したり、理由もなく精製・消滅したりするような鬼火のような実体概念は、それによって運動や変化を説明するための追跡可能性や同定可能性を危うくさせるから、そもそも実体概念として採用する眼目を欠くことになるだろう。追跡可能性や同定可能性の基礎に運動の連続性などの制約があるという事である。
これによって、すべてのクワス的概念が排除されるかどうかは明らかではない(おそらくグドマンの「グルー」などの概念は、生物体としての生存条件などの自然的制約に基づいて通常の概念から排除することはできよう)。
悟性による概念構成とその直観的制約とを、このように区別する立場は、カントのそれに近く、「ここ」「今」などの諸概念も「感覚的思い込み」の概念の弁証法に服すと見た『精神現象学』のヘーゲルとは対立する。
しかし「今」「ここ」などの直観的基礎は、概念にとってごく限定的な制約を与えるにすぎないので、それだけで我々の概念の迷宮をすっかり解消するにはほど遠いのである。その意味では、ヘーゲルがカントのアンチノミーを越えて、なお無数のアンチノミーが弁証法の領域に残されていると考えたことは正しかったのである。
我々の概念習得は、通常は言葉の適用条件(真理条件)の習得であると見られている。
しかし、そうでない概念も存在する。「ここ」「今」「私」などの指標詞などがそうである。エヴァンズによれば、これらの概念の意味理解は、その使用法の習得に尽きるわけではない。エヴァンズは「ここ」の分析を通して、その理解が非概念的な情報網の活用に基づくことを示した(それについては、すでに何度か紹介したので繰り返さない。たとえば2017年9月14日のエントリー「ライプニッツ再論―G.Evansと共に」参照)。
指標詞に準じて自己中心的空間(我々の行為空間)の特徴づけの概念(遠近、前後、左右、上下など)も同様である。
私の考えでは、「私」をめぐる理解とりわけ私の意図的行動をめぐる理解についても似たようなことがある。それらは、概念化に先んじて、行動能力の中に折り込まれた自己知を形成している。そして、プリミティヴな行動から、精緻に構成された高度な運動能力派の連続した発展の見かけから、「自由意志」の錯覚が容易に生じることについても、すでに論じた(6月30日のエントリー「意図的行動の自己知――「自由意志の起源」参照」。
ここでは、これら指標詞の使用が「誤同定による誤りから免れている」という特徴を帯びることについて論じてみよう。この特徴は、概念の適用条件の習得に基づかず、情報の活用によって同定がなされることによると思われるのである。たとえば、「私は歯が痛い」という命題は、私の誤同定によって偽となることはあり得ない。誰かの歯が痛いのだが、それは私ではなかったことによって誤ることはない。「私は靴のサイズが26センチである」は、私の足の誤同定によって偽となることもあろう。私を含む複数の人の足跡を見て、誰かの足が26センチであるのだが、それを私の足と誤同定することが起こり得る。
ところが、このような観察と推論によらず、自分にだけアクセス可能な情報に基づいて判断される命題では、誤同定による誤りは起こり得ないのである。
「ここ」についても同様。「ここは暗い」が、どこかが暗いのだが、その場所をここ取り違えたために偽となるという事はない。それは、ここに対して情報網を持ち、それによって直知の指示がなされるからである。
「ここ」を「私がいる場所」とか「発話者がいる場所」と言い換えることができるだろうか?そのような言い換えでは、「ここ」の意味のすべてを捉えることはできない。「発話者がいる場所」とか「私がいる場所」を誤同定することが実際可能であろう。それに対して、「ここ」を誤同定することはいかなることであろうか? ここがどのようであろうと、それを誤同定することはあり得ない。 「私がいる場所」などが誤同定されるのは、私がどこにいるかという信念に基づいて、その場所について何かが語られた場合である。それは概念によって特定の場所が特定されるので、誤同定が起こり得る。
これに対して、「ここ」は非概念的理解であり、そこから概念の適用条件を取り違えることによる誤りを免れている。このことは、「ここ」のクワス的理解があり得ないことを帰結する。クリプキのクワス的逸脱事例は、いずれも有限の概念適用事例から無限な概念の適用能力を規定できないことから来ているからである。仮に、「ここ」が通常は我々と同様の適用条件を持つものとして理解しているのであるが、特別の日(正月とかクリスマスの日)にだけは北極点を指示するものとして理解してしまっているクワス主義者を想定することができるだろうか? このような理解に基づいて言葉を習得することはできない。たとえば「暑い」という概念を習得しようにも、絶えず北極点事例が紛れ込んできて我々の理解を撹乱してしまうからである。
他方、「私のいる場所」は、「ここ」に近い意味を持つものと理解する路もあるかもしれない。それは、この表現を「そこから私が環境世界にかかわっている場所」という意味に理解する場合である。その場合、「私がいる」という事自体が、世界との関係のとり方が私の存在にとって欠くことのできないことであるという含意を持つことになろう。一般の物体がある場所を占めるというような関係とは違うのだ。ちょうど低気圧が周囲の空気とのかかわり抜きに存在し得ないように、それゆえ周囲の風とか雨とかと切り離し得ないように、私の存在も、環境世界に対する情報的交流抜きにあり得ない。それが私の知覚や行動である。かかる交流抜きに私の存在は有り得ない。ちょっとハイデガーのDaseinとdaの関係みたいに、私の存在がここにおける開け(自己中心的空間への情報的関係づけとしての空開性Einraumung――ちなみにハイデガーは、事物に空間的場所を与えること、空間的指示を可能にすることを空開性と呼ぶSein und Zeit p-111)と不可分にあることが、「私のいる場所」のかかる理解に含意されている。この場合には、「私のいる場所」は、非概念的に理解されている、つまり「ここ」と同様に理解されているのである。
しかし、もしそうであるならば、「私の場所」における「私」がデカルトのコギトの主体のように魂であることはできない。つまり、魂としてまず存在し、しかる後にここに据え置かれたわけではないのだ。逆に言えば、デカルト的コギトであれば、周囲の環境との情報リンクを取り結ぶことができない。なぜなら、その場合「私」と「私のいる場所」の関係は全く偶然のことになってしまうからである。
「私」がデカルト的に捉えられる場合、「私のいる場所」は誤同定可能なものとなり、誤同定不可能性という「ここ」との共通性を失う。これはちょうど、映画館の座席に座りながら画面を眺めて「そこ」がどこなのか推測するようなものである。他方、私の身体は背中や尻で座席を感じており、隣の人の息遣いや館内の空気を感じており、それらの情報で構成された「ここ」の指示は誤同定不可能である。
かかる次第に相成るのは、コギトの私が身体を通じて環境と取り結ぶ情報網抜きで考えられた抽象の産物だからであり、そんな「私」であれば、その後いかにして環境世界に自己中心的空間を据えることができるか理解できない。
かくして、このような「私」は、夢の中で蝶に変身していても、魂としての同一性を保持し、指示同定に成功していることになる。しかし、蝶になっている全体が夢の内容なのであるから、そこにおける蝶である「私」も指示しているわけでも、されているわけでもないのである。せいぜい指示されていると想像されているにすぎない。
「私」や「ここ」の指示は、概念的なものであり得ず、身体を使った情報の活用に基づくこと、それこそが他の概念の習得を可能にするものであるという事が重要である。
かくて、クリプキのパラドクスの基本に合った概念使用の取り違えの可能性自体、取り違えようのない(誤同定の可能性を免れた)非概念的行動能力と自己知に基づくこと、いかなる概念もこの能力の拡大でなければならない以上、多くのクワス的理解が排除されることが期待される。
たとえば、実体概念としてどのようなものを採用すべきかについては、悟性の能動性にいくつもの選択肢が開かれてあるだろうが、どんなものでもよいというわけではない。たとえば、かつて私は天候の説明のために「低気圧」という実体概念を説明項に取ることも「寒(暖)気団」を実体とすることもできると論じたことがある(『哲学史のよみ方』p−146)。電子や陽子を実体とすることは適切だろうが、フロジストンやエーテルは適切ではない。
とはいえ、どんな実体でも一応は想定可能なのか、といえばそうではない。たとえば、瞬間的に空間を移動したり、理由もなく精製・消滅したりするような鬼火のような実体概念は、それによって運動や変化を説明するための追跡可能性や同定可能性を危うくさせるから、そもそも実体概念として採用する眼目を欠くことになるだろう。追跡可能性や同定可能性の基礎に運動の連続性などの制約があるという事である。
これによって、すべてのクワス的概念が排除されるかどうかは明らかではない(おそらくグドマンの「グルー」などの概念は、生物体としての生存条件などの自然的制約に基づいて通常の概念から排除することはできよう)。
悟性による概念構成とその直観的制約とを、このように区別する立場は、カントのそれに近く、「ここ」「今」などの諸概念も「感覚的思い込み」の概念の弁証法に服すと見た『精神現象学』のヘーゲルとは対立する。
しかし「今」「ここ」などの直観的基礎は、概念にとってごく限定的な制約を与えるにすぎないので、それだけで我々の概念の迷宮をすっかり解消するにはほど遠いのである。その意味では、ヘーゲルがカントのアンチノミーを越えて、なお無数のアンチノミーが弁証法の領域に残されていると考えたことは正しかったのである。
easter1916 at 03:50│Comments(5)│
│哲学ノート
この記事へのコメント
1. Posted by 御坊哲 2020年10月10日 11:13
私は9月11日に新宿の朝日カルチャーセンターで先生の講義を受けたものです。講義の最後に「ゴールド・バッハ予想の意味を我々は理解していないと言うべきではないか?」という質問をしましたが、とっさのことでうまく言いたいことを言えませんでした。この問題についてエッセーを書いたので、読んでいただいてご意見を聴かせていただければ幸いです。少し長くなります。面倒だと思う場合は、無視して下さって一向にかまいません。
【私達はゴールド・バッハの予想という命題の意味を理解しているのだろうか?】
ゴールド・バッハの予想はいまだに証明されていない。けれどもその意味するところは明瞭に理解できる(ような気がする)。少なくとも、表現に不明瞭なものは見当たらない。おそらく、任意の偶数を指定された場合、それがどんな数であっても十分な時間さえあれば、私はその数がゴールド・バッハの予想に合致しているかどうかを検証することができる。しかし、そのことを持って、私はこの命題の意味を理解していると言ってしまってよいのだろうかという気がするのである。
この奇妙な感覚はおそらく、この言明が無限の領域に及んでいるからだろう。前に述べたように、証明すべき領域が有限であれば、私でも時間さえかければこれを証明できる。そういう意味では単純な命題に過ぎない。しかし、無限の領域にわたってこの言明を証明しようとすると途端に難しくなる。
(その2に続く)
【私達はゴールド・バッハの予想という命題の意味を理解しているのだろうか?】
ゴールド・バッハの予想はいまだに証明されていない。けれどもその意味するところは明瞭に理解できる(ような気がする)。少なくとも、表現に不明瞭なものは見当たらない。おそらく、任意の偶数を指定された場合、それがどんな数であっても十分な時間さえあれば、私はその数がゴールド・バッハの予想に合致しているかどうかを検証することができる。しかし、そのことを持って、私はこの命題の意味を理解していると言ってしまってよいのだろうかという気がするのである。
この奇妙な感覚はおそらく、この言明が無限の領域に及んでいるからだろう。前に述べたように、証明すべき領域が有限であれば、私でも時間さえかければこれを証明できる。そういう意味では単純な命題に過ぎない。しかし、無限の領域にわたってこの言明を証明しようとすると途端に難しくなる。
(その2に続く)
2. Posted by 御坊哲 2020年10月10日 11:16
(その2)
現在も未解決の数学問題は素数に関わるものが多い。おそらく素数と無限は相性がよくないのだと思う。素数の定義は「1と自分自身を因数として持たない正の整数」となっている。非常に明解な定義だが、ちょっと引っかかるのは代数的にシンプルな関数として表現できないことだ。
例えば、3の倍数を表す整式は、 f(x)=3xのようにシンプルに表現できるが、素数の場合はそうはいかない。
p(1)=2、p(2)=3、p(3)=5、p(4)=7、‥‥というふうに、素数をもれなく表現できる整式 p(x)が定義できたら、現在の数学の難問はあらかた片付いてしまうような気がする。そうはいかないのは、そのような都合のいい関数が存在しないからである。
「1と自分自身を因数として持たない正の整数」という定義は、有限領域においては全く問題なく明晰である。しかし、大きい素数については、それまでに求めた素数が関係してくる。一見シンプルなこの定義は、重層的に繰り返されている、無限領域に拡張するのは無理があるのではないかと思う。「素数である」という属性は「偶然的」であるという言い方はできないだろうか?
(その3に続く)
現在も未解決の数学問題は素数に関わるものが多い。おそらく素数と無限は相性がよくないのだと思う。素数の定義は「1と自分自身を因数として持たない正の整数」となっている。非常に明解な定義だが、ちょっと引っかかるのは代数的にシンプルな関数として表現できないことだ。
例えば、3の倍数を表す整式は、 f(x)=3xのようにシンプルに表現できるが、素数の場合はそうはいかない。
p(1)=2、p(2)=3、p(3)=5、p(4)=7、‥‥というふうに、素数をもれなく表現できる整式 p(x)が定義できたら、現在の数学の難問はあらかた片付いてしまうような気がする。そうはいかないのは、そのような都合のいい関数が存在しないからである。
「1と自分自身を因数として持たない正の整数」という定義は、有限領域においては全く問題なく明晰である。しかし、大きい素数については、それまでに求めた素数が関係してくる。一見シンプルなこの定義は、重層的に繰り返されている、無限領域に拡張するのは無理があるのではないかと思う。「素数である」という属性は「偶然的」であるという言い方はできないだろうか?
(その3に続く)
3. Posted by 御坊哲 2020年10月10日 11:17
(その3)
この「偶然的」ということについてもう少し考えてみる。仮に、パイ数という数の集合について考えてみるとする。{3,14,159,2653,58979,323846,2643383,‥‥} 円周率を頭から、1桁、2桁‥と1桁ずつ桁数を増やしながら区切っていくのである。これを使用して、「御坊哲の予想」という命題を作ってみよう。
「15個以内のパイ数で加減乗除すれば、あらゆる自然数を求めることができる。」
1=3÷3
2=14−3−3−3−3
3=3
4=3÷3+3
: :
ある程度までは行けそうである。もしこの予想が計算機で検証できる範囲まで正しかったとしたら、果たして数学的に意義のある予想であると言えるだろうか? パイ数は有限範囲内であれば、それらについて何らかの言及をすることには何も問題はないと思う。しかし、パイ数全体の集合を考えることにはなにか抵抗を感じる。
要素の抽出条件が偶然的である場合に無限集合を構成できない。そういうものを考えようとしても、私達には考えることができないのではないかという気がする。もしかしたら、私達はゴールド・バッハの予想の意味を理解していないのではないかという気がするのである。
この「偶然的」ということについてもう少し考えてみる。仮に、パイ数という数の集合について考えてみるとする。{3,14,159,2653,58979,323846,2643383,‥‥} 円周率を頭から、1桁、2桁‥と1桁ずつ桁数を増やしながら区切っていくのである。これを使用して、「御坊哲の予想」という命題を作ってみよう。
「15個以内のパイ数で加減乗除すれば、あらゆる自然数を求めることができる。」
1=3÷3
2=14−3−3−3−3
3=3
4=3÷3+3
: :
ある程度までは行けそうである。もしこの予想が計算機で検証できる範囲まで正しかったとしたら、果たして数学的に意義のある予想であると言えるだろうか? パイ数は有限範囲内であれば、それらについて何らかの言及をすることには何も問題はないと思う。しかし、パイ数全体の集合を考えることにはなにか抵抗を感じる。
要素の抽出条件が偶然的である場合に無限集合を構成できない。そういうものを考えようとしても、私達には考えることができないのではないかという気がする。もしかしたら、私達はゴールド・バッハの予想の意味を理解していないのではないかという気がするのである。
4. Posted by tajima 2020年10月10日 12:52
御坊哲さま
コメント恐れ入ります。またカルチャーセンターの講義に参加くださり、ありがたうございます。πの数といふアイデアはおもしろいですね。この場合も、πの数を無限に見通せないといふ所に問題がありさうです。
三角形の内角の和は二直角であるといふ定理も、証明されるまではすべての三角形を見通す視点はもてません。確かに、直角二等辺三角形とか正三角形の場合に、90+45+45=180,60+60+60=180などであることはわかりますが、すべての三角形で、無限な場合についてさう言へるためには証明が必要なのです。それはその意味を理解できるためにも証明が必要だといふことです。なぜなら、さもなければすべての三角形を見通すことができてゐないから。
このやうな事情を、私は隠喩や謎々を理解する場合に類比できると考へてゐます。「偶数と掛けて、二つの素数の和と解く、その心は?」といふわけです。「その心」が与へられてゐなければ、この謎は理解できたとは言へないのです。
コメント恐れ入ります。またカルチャーセンターの講義に参加くださり、ありがたうございます。πの数といふアイデアはおもしろいですね。この場合も、πの数を無限に見通せないといふ所に問題がありさうです。
三角形の内角の和は二直角であるといふ定理も、証明されるまではすべての三角形を見通す視点はもてません。確かに、直角二等辺三角形とか正三角形の場合に、90+45+45=180,60+60+60=180などであることはわかりますが、すべての三角形で、無限な場合についてさう言へるためには証明が必要なのです。それはその意味を理解できるためにも証明が必要だといふことです。なぜなら、さもなければすべての三角形を見通すことができてゐないから。
このやうな事情を、私は隠喩や謎々を理解する場合に類比できると考へてゐます。「偶数と掛けて、二つの素数の和と解く、その心は?」といふわけです。「その心」が与へられてゐなければ、この謎は理解できたとは言へないのです。
5. Posted by 御坊哲 2020年10月11日 19:44
田島先生
丁寧なご回答を有難うございます。
丁寧なご回答を有難うございます。