「プーチンの演出家」が書いた奇妙な小説を読んでみた

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトでロシアのウクライナ侵攻について書いたものを、全6回で再掲載しています。第3回は「プーチンの演出家」ウラジスラフ・スルコフの小説“Almost Zero(ほとんどゼロ)”の紹介です。(公開は2022年4月21日。一部改変)

2018年のロシアワールドカップで、ロシアの勝利に赤の広場に集まるひとたち  (@Alt Invest Com)

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ロシア(ウクライナ)系イギリス人のピーター・ポマランツェフは、2006年から10年までモスクワのテレビ局でリアリティショー(ドキュメンタリー)の制作に携わり、ロシアのメディアが“Nothing is True and Everything is Possible”(真実などどこにもなく、すべてがでっちあげ)という並行現実(パラレル・リアリティ)をつくりあげていることをさまざまな興味深い事例とともに描き出した。

[参考記事]●陰謀論とフェイクニュースにまみれた国

その登場人物なかでも、際立って興味深いのはウラジスラフ・スルコフだろう。「クレムリンの創造主(デミウルゴス)」「ロシア史上最高の政治工学者」の異名をもち、それ以外にも「宰相(ワズィール)」「灰色の枢機卿」「オズの魔法使い」などとも呼ばれている。

スルコフは2011年12月から13年5月まで、プーチン政権とメドヴェージェフ政権で副首相を務め、その後は20年2月まで大統領補佐官だった。その役割をひと言でいうなら、「プーチンの演出家」になるだろう。

スルコフは2008年に、自身の経験に基づく小説“Almost Zero(ほとんどゼロ)”を(筆名で)出版している。その華やかな経歴とこの風変りない小説からは、うすら寒くなるようなニヒリズムが感じられる。

自分さがしから辣腕の広告マンへ

ウラジスラフ・スルコフはソ連時代の1964年(62年の説もあり)にチェチェン・イングーシ自治共和国で、チェチェン人の父親とロシア人の母親とのあいだに生まれた。両親は共に教師だったが、父親はスルコフの幼少時に家を出ていった。その後、母親とともにモスクワの南のリペツク州に移り、名前をアスラムベクからロシア風のウラジスラフに変え、ロシア正教の洗礼を受けたといわれている。出生時の状況には諸説あるものの、父親がチェチェン人であること、母子家庭で育ったこと、子どもの頃からきわめて優秀だったことは間違いない。

ポマランツェフによれば、高校時代のスルコフは反抗的な若者で、「ベルベットのズボンをはき、ピンク・フロイドのように髪を長く伸ばし、詩を作り、女の子に人気があった」。文学や演劇、音楽などに傾倒し、「彼はオールAの優等生で、文学作品に関する彼の作文をよく教師たちが教員室で読み上げていたほどだ」とされる。――クリミア併合後の2014年3月、スルコフはオバマ政権による制裁で米国への入国を禁止されるが「アメリカで興味があるのは2パック・シャクール(ラッパーで96年に銃撃により死亡)、アレン・ギンズバーグ(ビート世代の詩人)、ジャクソン・ポロック(抽象画家)だけだ。彼らの作品にアクセスするためにビザは必要ない」と述べた。

1982年にモスクワの国立科学技術大学に進学したスルコフは、金属学を専攻したが興味をもてなかったらしく、1年で中退すると83年から85年まで軍歴についた。公式の経歴ではハンガリーのソ連砲兵連隊に配属されたたとされるが、参謀本部情報総局 (GRU) に所属していたとの説もある。

除隊後はモスクワ文化学院で演劇を学んだが、ペレストロイカで民間企業が解禁されるとふたたび大学を中退し、87年にミハイル・ホドルコフスキーの金融事業の広告部門の責任者に就任する。スルコフはこのとき弱冠24歳で、PRについてなんの経験もなかったのだから、まさに大抜擢だ(90年代後半にモスクワ国際関係大学の経済学修士を取得している)。

ホドルコフスキーはロシア初期のオリガルヒ(新興財閥)の一人で、1963年生まれだからスルコフと同世代だった。エリートとして大学卒業後にコムソモール(共産党の青年組織)の書記となったホドルコフスキーは、民間事業の可能性にいち早く気づき、88年に科学技術進歩商業革新銀行を設立(その後、メナテップ銀行と改称)した。ソロコフがどのような伝手でホドルコフスキーと知り合ったのかは不明だが、この“ベンチャー企業”の幹部として広告・広報部門を仕切ることになる。

91年にソ連が崩壊し、ボリス・エリツィンがロシア連邦の初代大統領になると、「自由化」の名の下に国の資産が割安で売りに出され、西部開拓時代のゴールドラッシュのような「一攫千金」の混乱が生じた。ホドルコフスキーはこの千載一遇のチャンスを見逃さず、民営化された多くの会社の株式を買い占め、メナテップ銀行を中心に巨大な持ち株会社をつくりあげた。

スルコフの最初の大きな仕事は、92年のメナテップ銀行の広告キャンペーンだった。「ロシアで最もハンサムなオリガルヒ」と呼ばれたホドルコフスキーが、「楽に金儲けしたければ、僕の銀行にどうぞ」「僕は成功した、君もできるさ!」と満面の笑みを浮かべて札束を差し出すポスターを街じゅうに貼り出したのだ。

ソ連時代に「資本主義は悪」と徹底して教育されてきた国民にとって、この広告はとてつもない衝撃だった。それまで金持ちは自分の成功を隠さなければならなかったが、スルコフは時代の変化にいち早く気づき、「富は美徳だ」と宣言したのだ。

クレムリンでプーチンを演出する

ホドルコフスキーは95年にグループの投資会社「ロスプロム」を設立し、石油会社ユコスを含む多くの企業を傘下に置く一大財閥を形成した。スルコフは97年までロスプロムの広報部門の責任者を務め、その後、ウクライナ出身のオリガルヒ、ミハイル・フリードマン(1964年生まれのやはり同世代)のアルファ銀行に移ったが、ここは1年間の腰掛けだった。98年に国営テレビ放送(ロシアワン)の広報担当ディレクターになったあと、翌99年にロシア大統領府副長官に任命されている。このとき33歳で、ホドルコフスキーの事業に参加してから6年しか経っていないのだから、驚くべき出世だ。

スルコフに与えられた任務は、ホドルコフスキーのイメージをつくり上げたのと同様の手法で、エリツィンの後を継いで大統領に就任することになっていた第一副首相(プーチン)を、メディアを使って演出することだった。

プーチンは大統領になると、政権に批判的な報道をしていたテレビ局NTVのオーナーでオリガルヒのウラジーミル・グシンスキーを、過去の民営化をめぐる横領・詐欺容疑で逮捕し、NTVは政権寄りのガスプロムに買収された。これによってクレムリン(プーチン政権)はロシアの全国ネットをすべて支配し、スルコフは絶大な権力を振るうことになった。ポマランツェフはその様子をこう書いている。

元大統領副長官、次いで副首相を務め、そののち外交問題大統領補佐官に就任したスルコフは、ロシア社会を一つの巨大なリアリティ・ショーのように演出してきた。彼がぱんと一つ手を叩くと、新しい政党が出現する。もう一度叩くと、ヒトラーユーゲントのロシア版である「ナーシ」が生まれる。「ナーシ」は、民主主義の支持者になりそうな者たちとの市街戦を想定した訓練を受けたり、赤の広場で愛国的でない作家の著作の「焚書」をしたりしている。スルコフは大統領府副長官として、彼のクレムリンのオフィスで週に一度テレビ局の経営者らと会い指示を出していたものだ――誰を攻撃し誰を擁護するか、テレビ出演が許可される者と禁止される者、大統領をどのように見せるか、またか国民が考えたり感じたりする際のまさに言い回しや範疇についての指示だった。

ホドルコフスキーはメナテップ銀行を98年のロシア危機で経営破綻させたものの、ユコスがルクオイルと並ぶロシア最大の石油会社に成長したことで、さらに大きな影響力をもつようになった。だがクレムリンの政争に巻き込まれ、2003年に脱税などの罪で逮捕され、禁錮9年の実刑判決が下され、シベリアの刑務所に収監された(その後、2017年まで刑期が延長されたが13年に恩赦で保釈、イギリスに亡命した)。

大学を中退し、「自分さがし」をする演劇青年に過ぎなかったスルコフにとって、ホドルコフスキーは人生を一変させてくれた“恩人”だ。ところがスルコフは、囚人服を着て動物のように檻に閉じ込められているホドルコフスキーの姿を繰り返しテレビで放映させた。そのメッセージは明らかだった、とポマランツェフはいう。「『フォーブス』の表紙を飾っていたのが監獄に入ってしまっても、たった写真一枚の差なんだよ……」。

「クレムリンの創造主(デミウルゴス)」の奇妙な小説

ロシアにおいて、テレビによるプロパガンダの影響力を最初に理解したのは、「クレムリンのゴッドファーザー」と異名をとったオリガルヒのボリス・ベレゾフスキーだった。主要テレビネットワークORT(チャンネル1)を支配下に置き、1996年の大統領選で再選が危ぶまれたエリツィンが踊る姿をテレビ放映して健康不安説を払拭させた。さらには、対立候補を「赤色(スターリニズム)と褐色(ファシズム)」に仕立て上げ、「迫り来るポグロムについての恐ろしい物語」をTV番組にし、「でっちあげ(フェイク)の極右政党」までつくり出してみせた。

ベレゾフスキーはその後、プーチンと対立してイギリスに亡命、慰謝料や裁判費用で無一文にちかい状態になって13年にロンドンで自殺した(他殺説もあり)。スルコフはベレゾフスキーの後を継いで、より精緻な「政治工学」を駆使してオルタナファクト(もうひとつに事実)を次々と生み出していった。

「この新しい権威主義(オーソタリアニズム)の優れた点は、20世紀の緊迫した状況ではありがちだったたんなる反対派の弾圧ではなく、すべてのイデオロギーや運動の内部に入りこみ、それらを利用したうえに、ばかげたものにしてしまうことだ」とポマランツェフは書く。スルコフの特徴(「魅力」といってもいい)は、富や権力に取り憑かれるのではなく、それを醒めた目で見ているトリックスター的なところだろう。

スルコフは、たった今市民フォーラムや人権関連のNGOに資金を供給したかと思えば、次の瞬間には、NGOを西側の手先になっていると主張して糾弾している民族運動の側を密かに支持する。彼はこれ見よがしにモスクワで最も刺激的なモダン・アーティストのための芸術祭を気前よく後援したかと思えば、次にはそのモダン・アートの展覧会を攻撃するロシア正教の原理主義者を支持して、黒ずくめの服装で十字架を持ち歩く。(略)クレムリンの考えるモスクワは、午前中は寡頭政治、午後は民主主義、夕食時には君主政で、就寝時までには全体主義国家といった趣がある。

そんなスルコフが、2008年に自身の経験に基づく小説(Almost Zero)を発表したのだから、たちまちベストセラーになったのも当然だ。もちろん読者は文学性を期待したのではなく、この作品から体制の内側を覗き見られるかもしれないと思ったのだ。

“Almost Zero”は「ナタン・ドボヴィツキー」というペンネームで出版されていて、スルコフは作者であることを認めていないが、彼の妻の名は「ナタリア・ドボヴィツカヤ」だ。公式にはスルコフは推薦文を寄せているだけで、そこには「この小説の作者は独創性のかけらもない、ハムレットに取り憑かれた三文文士に過ぎない」と「これは私が今までに読んだ本のなかでも最高傑作である」という矛盾したことが書かれている。まるで、この作品がどのような扱いを受けるかをわかったうえで、読者・批評家をからかっているかのようだ。

このような経緯を知ると、この小説がどんなものか読んでみたいと思うだろう。Amazonでは取り扱っていないが、インターネットを検索してみると、ニューヨークの独立系出版社が英訳しているのを見つけた(PDF版は10ドル)。この英訳版は、どういう経緯なのかはわからないが、「著作権フリー」になっている。

そこでさっそく購入して読んでみたのだが、これはスルコフという人物そのままで、一筋縄ではいかない奇妙な小説だった。

ハードボイルドのパロディ

“Almost Zero”は、「生涯(The Career)」という短編小説から始まる。主人公はヴィクトール・Oという若者で、地方からモスクワに出てきたものの食い詰め、強欲な家主一家の下働きとして、家主の妻への性的なサービス込みで寄宿することになる。だがあまりに酷使されたため、ヴィクトールは精神に変調をきたし、化学実験室に駆け込むと、ベルトルト・シュヴァルツ(ドイツの科学者で、14世紀に黒色火薬を発明したとされる)に変身して火薬をつくり、工場の半分を吹き飛ばしてしまう。

精神科施設に入れられたヴィクトールは、投薬治療によって、自分がシュヴァルツでなく火薬がすでに発明されていることを納得したが、こんどは作家に変身して、13時間で小説を書き上げた。それはロシア革命直後の1921年にロシアの作家ザミャーチンが発表したディストピア小説“We(われら)”と一字一句同じだったが、ヴィクトールはそれを読んだことがなかった。

ザミャーチンの『われら』では、1000年後の世界は〈単一国〉という都市国家によって統治されている。国民はアルファベットと番号で管理され、食事から性行為まで、人生のすべてを〈時間タブレット〉によって国家が決めている。ジョージ・オーウェルはこの作品に触発されて『1984年』を書いたが、全体主義の悪夢を描いた『われら』がいきなり出てくるところに(ロシアを全体主義国家にしたと批判されている)スルコフの諧謔趣味がよく現われている。

哀れなヴィクトールはその後、角と牙をもち、全身が剛毛に覆われた動物に変身し、100匹以上に増殖してモスクワ一帯の農地を荒らすようになる。最後には、動物愛護団体の抗議にもかかわらず狩猟許可がおり、世界中からハンターたちが集まって駆除されてしまう……という話だ。

“Almost Zero”の主人公はエゴール(Yegor)というフィクサー(出版社の社長)で、こういう(どうしようもない)小説を高額で購入している。文化的な箔をつけたいオリガルヒに、自身の作品として発表できるという条件で、さらに高値で売りつけているのだ。

こうしたいかがわしいビジネスによってエゴールは、モスクワの高層マンションのペントハウスで暮らすまでになった。暑さに弱いので、部屋はつねに華氏52度(摂氏11度)にしていて、たまの来客のためにコートや耳あて付きの帽子を用意している。

マンションの1階には「ダイヤモンド」という高級レストランがあり、エゴールはそこでさまざまな来客と打ち合わせをする。あるときエゴールは、このレストランでクライベイブ(Crybabe)というファムファタル(運命の女)と出会う。エゴールとクライベイブはいっしょに暮らしはじめるが、彼女の望みは映画スターになることで、すぐに別の男に乗り換えて、金がなくなったときだけエゴールに連絡してくる。

クライベイブは夢見ていたように映画出演を果たすのだが、それは無残に首を絞められて殺される役だった。その場面があまりにリアルだったので、エゴールはそれが演技ではなく、スナッフフィルム(実際の殺人を撮影した映像作品)ではないかと疑い、映画スタジオを訪ねる。そのスタジオはエゴールの生まれ故郷に近い北コーカサスにあり、そこでエゴールは、これまで記憶から抹殺してきた過去の自分と向き合うことになる……。

この晦渋かつひとを食ったような小説の筋を無理にまとめるとこのようになる。スルコフはこれを「ギャングスタ・フィクション」だというが、ハードボイルドのパロディ(スラプスティック・ハードボイルド)のような印象だった。

「とてつもなく賢い若者」のニヒリズム

「クレムリンの創造主」スルコフの小説では、主人公の出版社社長は高級レストラン「ダイヤモンド」に浮浪者のような詩人を呼んで、クライアントの州知事のために詩集を、その姪が映画学校を卒業するために映画の脚本を、契約どおり書くよう催促する。

次にレストランに現われたのは硬派の女性ジャーナリストで、州知事の親族が所有している化学工場の汚染で子どものがんが広がっていると告発した。そこでエゴールは、クライアントの意を受けて、「化学工場はやはり必要だ」という記事を新たに書くかわりに、モスクワに近い自然保護区の一等地に別荘(ダーチャ)用の土地を提供する話をする。さらには、州知事の系列の銀行から優遇金利で別荘の建築費用を借りることもできる。

その提案がまとまると、エゴールは“ウォッカ派”と“ビール派”の政治家の討論会の企画を女性ジャーナリストに持ち掛ける。“ウォッカ派”はビールの規制を要求してビール会社から献金を受け、“ビール派”はウォッカの規制を要求してウォッカ会社から献金を受け取る。これは出来レースで、そのあと2人は儲けを山分けする。エゴールの仕事は、この討論会の記事を報酬を払って有名ジャーナリストに書かせることだ。これはもちろん創作だが、スルコフはずっと、このようなことをやってきたのだろう。

女性ジャーナリストが帰ったあと、クライベイブを待つあいだ、エゴールはレストランで一人、自分の人生を回想する。以下の記述は、ソロコフが自分自身について語っているとしても違和感はないだろう(意訳。省略あり)。

エゴールは「異常に金持ちのロシア人」と呼ばれるグループに属し、その収入や道徳観は「ミリオネアのライフスタイル」といわれるものを実現可能にしていた。見てくれをよくし、高尚な趣味に蕩尽し、だが精神的には「ゼロ」を描くだけ。カネはものすごい勢いで入ってくるが、「神のみぞ知る」理由で途方もないカネが消えていく。エゴールは、どうすれば貯蓄し、資産管理できるかなにもわからなかった。そうしたいと心の底から望んでいるにもかかわらず。

突然、彼は新しい車が必要になった。メルセデス? レクサス? 朝食のビジネスミーティングがランチになり、夜中のどんちゃん騒ぎになだれ込む。プロの女の子たちや、有名ミュージシャン、ダンサーたちを彼のゲストとして派遣会社に手配させ、3週間続いたドカ飲みも忘れちゃいけない。みんな大満足で、ぎりぎりで飛び乗った飛行機でパリに出張し、そこでもパーティは続いたっけ。

そんなこんなで、貯金はまったくできない。倹約生活は無意味に思えるし、こんな調子では浪費三昧ですっからかんになるのは不可避のようだし、それがいつ起きたっておかしくはない。金持ちになればなるほど、エゴールの精神状態は不安定になっていった。イギリス人のいう「冷たく落ち着いたプライド」というやつが、彼のような億万長者には不可欠なのだ。

タックスヘイヴンに隠した大金も含め、未来に確実なものなんてなにもない。最悪なのは、未来が貧しく悲惨だった過去の反映だとわかっていることだ。無一物で放り出され、希望もなく、記憶の鎖から逃れようとあがく。過去は捨てられた恋人のように、荒れ果てて執念深い。過去と向き合うことは「破滅」の同義語で、だからこそエゴールは、恐怖も野心すらもなくつねに前進しつづけ、記憶に背を向けなければならない。これからなにが起ころうとも、それがかつての自分でないかぎり。

ロシアの地方都市のシングルマザーの家庭に生まれたエゴールは、ソ連時代末期の見せかけのイデオロギーに幻滅し、「書物を通じて知識を得たヒップスター」として成長する。彼の人生は、1980年代にボヘミアン仲間に加わろうとモスクワに移り住み、90年代にPR業界の導師(グル)になるスルコフの経歴と共通する部分が多い。

「スルコフは、地位も、仕える相手も、イデオロギーも、何のためらいもなく変えた」と、この本を評してポマランツェフは書く。エゴールは(そしてスルコフも)、「彼の生きる時代の浅薄さを見抜くことはできるが、誰に対しても何に対しても心からの感情を持つことができない“俗物のハムレット”」なのだ。

そしてこのようなタイプの新しいエリートは、ロシアでは珍しくない。その一人はポマランツェフにいった。

「この20年というもの、僕らは自分たちがまるで信じていない共産主義、それから民主主義とデフォルト、マフィア国家とオリガルヒを生き抜いてきたよ。結果、僕らはそれらすべてが幻想であるし、何もかもPRであることに気づいたってわけさ」

ソ連崩壊でこれまでの価値観が底が抜けたように消え失せ、その後の混乱を目にした「とてつもなく賢い若者」たちは、大衆は簡単に操作できるし、現実なんて自分が好きなように適当につくり出せばいいのだと思うようになった。

いまのロシアはたしかに「宗教的なナショナリズム国家」だが、そこに「ポストモダン」を感じるのは、底流にこうしたニヒリズムがあるからでないだろうか。

第1回 ロシアは巨大なカルト国家なのか?
第2回 陰謀論とフェイクニュースにまみれた国
第4回 「共産主義の犯罪」をめぐる歴史戦の末路
第5回 ロシアはファシズムではなく「反リベラリズム」
第6回 30年前に予告されていた戦争

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