武士の起源を解きあかす――混血する古代、創発される中世 (ちくま新書)
岸田内閣には「安倍元首相の影」があるといわれるが、その特徴は反対派の切り捨てである。河野太郎氏を広報本部長にした以外は、石破茂氏も小泉進次郎氏も無役で、その支援者も徹底的に冷遇する。これが裏切り者を許さない長州武士の伝統なのだろうか。

このように忠誠心を重視する武士のエートスは、農民の実利主義とは違う。戦後初期のマルクス主義歴史学では、荘園の中で成長した農民が武装し、荘園領主の支配を脱して武士になったと考えたが、それは史実と一致しない。著者は「中世に活躍した代表的な武士に農民の子孫など一人もいない」と断定する。

武士の起源は、宇多天皇のころ(887年~)始まった天皇を警護する滝口武士だった。これは当時、都に横行した群盗から天皇を守る警備員で、平・源・藤原などの姓を与えられた。しかし彼らは乗馬や弓術などの特技をもち、明らかに伝統的な豪族とは異なる軍人だった。

これは都を荒らし回った群盗の一部が天皇を守る警備員として雇われ、貴姓を授かったものだというのが本書の見立てである。この姓は豪族と同じだが、警備員に藤原家と血縁があったわけではない。滝口武士は治安維持に重要な役割を果たしたが、都が平和になると職を失い、地方に散って地元の豪族と混合した。それが10世紀以降の武士である。

武士は京で生まれ地方で受精した

この武士という名称にも意味がある。中国では<武>と<士>は対立概念である。「よい鉄は釘にならず、よい人は兵にならない」といわれるように、兵士は食いつめた貧乏人のなる職業で、士(高級官僚)とは対極にあった。その暴力組織を支配階級の一部と位置づけ、天皇のコントロールのもとにおいたのだ。

宇多天皇の文書では「武士と文人」というように、武士は文人(知識人)と対立して使われている。武士は初期には特殊技能をもつ職能集団だったが、その地位が世襲されるようになって「家」が生まれた。これを著者は「京を父とし、地方を母とし、地方で受精して育った混血種」だという。

血縁集団は一定の規模を超えると維持できないが、そのとき中国の宗族(これも家(チア)と呼ばれる)のように数万人の擬制血縁集団に拡大するのではなく、2~3世代が同居する直系家族になった。これは小規模なので男子が死ぬと絶えてしまうが、そのリスクを婿入りという日本独特の形で防いだのではないか。

長子相続の直系家族は、きわめて不平等な家族制度である。女性は他の家に嫁入りできるが、次三男は土地を相続できず、村を離れるしかない。それを婿養子という形で救済し、結果的に能力主義を導入した。ここで忠誠の対象は主君ではなく、先祖代々受け継いだ「名」である。

その根拠となっているのは、土地の所有権が一義的でなく、天皇の権威を必要としたためだ。中世には土地をめぐる争いが多く、それを裁定する権威として天皇は必要だった。それがまったく無意味な記号になったのは、江戸時代以降である。