2022年01月06日

修辞学(つづき)

同情
 ここで我々は、同情に対するニーチェの批判というより嫌悪を問題とせねばならない。彼は至る所でその反感を漏らしている。たとえば、『悦ばしき知恵』

矜持に乏しく、偉大な征服への望みなど皆目持たないような人間たちにあっては、同情はもっとも快適な感情である。(ちくま文庫ニーチェ全集版p−78)

彼ら〔同情深い人〕は〔不幸な人を〕援助しようとするが、不幸の個人的必要性というものが存在することには思いつかない。…要するに「同情の宗教」が助けるよう命ずるし、何をおいても手っ取り早く助けるのが一番よい助け方だと信じている。…さてそうなると、君たちは君らの同情の宗教以外にもう一つ別の宗教を胸中に持つことになり、そしてこれこそがおそらくは同情の宗教の母なのだ――つまり安楽の宗教。(同p−357)

このような同情観は、主としてショーペンハウアーから、ないしはそれへのニーチェの反発から、来ているものである。

同情についての、かつ同情において全道徳性の根拠としての個体化の原理の突破が可能になる、などという無意味な考え。(p−179)

 ショーペンハウアーによれば、人間を含む万有の根本が生きんとする意志であり、それは常に個体化の原理にとらわれて無益な闘争と対立に巻き込み、意味のない苦悩に悩ませ続ける。そこからの快癒の唯一の道は、同情を通して固体化の原理から自由になり、己れを空しうする一種のストア的諦観(アタラクシア)に達することと言う。
 このような同情観では、苦悩の一様性が前提されている。生一般の意味が、生きんとする盲目の意志とされる以上、それを阻害するものは一様に苦痛とされる他ない。だからこそ、同情の宗教の隠れた基礎には、安楽の宗教があるのだ。
 しかし、雄渾なギリシア人のような精神は、偉大なものを求める冒険的生にとって、危険はもちろん苦悩さえも必要な薬味と見なしていたのである。我々の快楽に深い関係がある神経伝達物質の一つドーパミンは、生にとって有用な刺激たとえば栄養の摂取のさいなどに放出されるばかりでなく、そのような刺激の予感や変化の兆しなどに対しても同様に放出されることが知られている。したがって、恐怖や苦痛に際しても放出されることがある。それによって我々の祖先は、ただ安定した生活(アタラクシア)を捨てて、冒険に駆り立てられることにもなったのであろう。人間以外の動物はいざ知らず、人間という種においては、快楽が必ずしも生にとって有益なものばかりに特化しておらず、危険なもの刺激的なもの、ときには苦痛ですらあるものにも開かれていること(マゾヒスムを含むさまざまな倒錯心理)の生理的基礎が、ここにあるのかもしれない。
 人間の種においては、快が必ずしも生にとって有益なものばかりに特化していないことはフロイトも認めるところである。排便のコントロールに当たって、幼児には厳しい掟が課せられる。その結果、排便を我慢する苦痛と、それからの解放の快楽との反復が、快苦のシニフィアンとして身体に刻み付けられる。そこから、このシニフィアンの反復そのものから、高次の快楽を得る道が生じるのだ。そのさい、ドーパミンの分泌が、ただ有用なものに対して対応しているのではなく、その変化に対応していることは実に好都合ということになる。実際このことは、たとえ快感と言えども、それが一様に続くなら、その感覚はほどなくそれを感知できないほどまでに弱まるという我々の経験に合致していよう。ストア派やエピキュロス派はもちろん、ショーペンハウアーも、この点では全く苦悩と快楽の心理学に無知だったと見える。前二者はすでにポリスの解体状況において古典的ギリシアにあった精神を喪失していたのであり、後者は、ブルジョワ社会の初期にあった冒険心を失い、金利生活者特有の守りの生活に冒されていたのである。


easter1916 at 02:56│Comments(0) 哲学ノート 

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