大学教育に意味はあるのか?

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載しています。

前回は「あなたの一票には意味があるのか?」をアップしましたが、今回はリバタリアンの経済学者ブライアン・カプランの『大学なんか行っても意味はない? 教育反対の経済学』(みすず書房)を紹介します。原題は“The Case Against Education; Why the Education System Is a Waste of Time and Money(「教育」を被告人とする訴訟事例 教育システムが時間とカネの無駄である理由)”。(公開は2021年5月20日。一部改変)。

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ブライアン・カプランはプリンストン大学で博士号を取得し、現在はジョージ・メイソン大学経済学部教授というエリートだが、「高等教育はほとんどのひとにとって不要だ」という暴論を唱えている。それも、教育学、心理学、社会学、経済学の山のような研究論文を読み、膨大な(そしてスタンダードな)エビデンスを集め、徹底的に検証したうえで、「問題は教育が足りないことではなく、教育のしすぎにある」との結論に達したという。

学校教育は学生たちに役に立つことをほとんど教えていない

アメリカでも日本でも、あるいは先進国・新興国を問わず、学歴が収入に大きな影響を与えている。日本では大卒・大学院卒の男性の生涯賃金は2億6980万円で、高校卒の2億910万円より30%多い(2018年)。アメリカはもっと極端で、大卒の収入プレミアは70~100%(2倍)とされる。

学歴でなぜこれほどの格差が生じるのか。「そんなの当たり前だ。大学教育によって、より高い賃金にふさわしい知識やスキルを獲得したのだ」というのが教育者の答えだろう。労働市場で評価される能力は「人的資本」と呼ばれるから、これは「教育によって人的資本が大きくなる」という説明だ。――カプランは「人的資本純粋主義」を、「ほぼすべての教育が仕事で役に立つスキルを教え、その仕事のスキルや教育が労働市場で見返りをもたらすほぼ唯一の理由である」という思想だと定義する。

人的資本純粋主義では、「より多くの国民により高い教育を受けさせれば、ひとびとはゆたかになり、社会もその恩恵を受ける」とする。事実、どの国も教育に巨額の公費を投入し、高校・大学進学率は一貫して上昇してきた。

だが、このわかりやすい話にはどこか居心地の悪いところがある。もしこれが正しいとすれば、大学までを義務教育にして無償化すればユートピアが実現するはずだが、どれほど理想主義の教育者でもこれを主張するのは二の足を踏むのではないか。

その理由をカプランは、「学校教育は学生たちに役に立つことをほとんど教えていないから」だという。教師はみんな(いわないだけで)このことを知っているので、「教育にもっと公費を投入すべきだ」と大合唱しながら、教育がどれほど人的資本の形成に役立っているかについては口をつぐんでいるのだ。

アメリカの一流私立大学はどこも教育費がきわめて高い。カプランが学んだプリンストン大学の授業料は年額4万5000ドル(約500万円)を超えるが、じつは誰でも無料で勉強できる。学部の講義なら、正規の学生か否かにかかわらず聴講者を拒む教員はいないからで、これはアメリカの他の一流大学も同様だという。

多くの教育者が主張するように、質の高い教育が大きな人的資本を形成するのなら、賢い若者はハーバードやイェール、プリンストン、スタンフォードなどの「ニセ学生」になって、タダで勉強するはずだ(現在では、超一流の学者・研究者の講義がYouTubeなどで公開されている)。

正規の学生と「ニセ学生」は、まったく同じ授業を受けることができるが、ひとつだけちがいがある。それは、「ニセ学生」では卒業証書をもらえないことだ。

かつて、卒業証書は羊皮紙(シープスキン)に印刷されていた。ここから、卒業することによるボーナスは「シープスキン効果」と呼ばれる。

高校3年(あるいは大学4年)で中退した者と、高校/大学を卒業した者とのあいだにも、生涯賃金に大きな格差がある。シープスキン効果は、重要なのは「教育を受けた年数」ではなく、高校や大学を「卒業」したかどうかであることを示している。

学生はこのことをよく知っているので、高い授業料を払って卒業し、「大卒」の学歴を手にしようとする。一流大学の講義をタダで受講できたとしても、そんなものになんの価値もないのだ(だから大学は、「ニセ学生」対策をする必要がない)。オンライン教育も同様で、学生が人的資本ではなく学歴を渇望している以上、既成の教育システムに置き換わるのは無理だろう。

「教育内容ではなく卒業証書に価値がある」というのは、教育者にあるまじき発言に思えるが、カプランは、じつは大学教授こそがこのことをいちばんよくわかっているという。なぜなら、大学は「学歴主義が世界一多く生息している環境」で、「「相応の」学位のない人間など絶対に雇わない」のだから。

アメリカ人の半分は地球が太陽の周りを回っていることを知らない

高校や大学の授業で、「こんなことを勉強して、将来、なんの役に立つのか」と疑問に思ったひとは多いだろう。これに対してカプランは、「なんの役にも立たない」とひと言でこたえる。

旅行やビジネス、学問の共通語は英語で、アメリカ人はみな英語のネイティブスピーカーであるにもかかわらず、高校では人生でほとんど使うことのないスペイン語やフランス語を何年もかけて勉強させられる。三角関数や微積分の知識を必要とする仕事はほとんどなく、科学や工学関連の職業を志すのは高校生の5%程度にすぎない。

2008~09年に心理学の学士号を取得した大学生は9万4000人いるが、アメリカ国内で心理学者として働いているのは17万4000人だ。コミュニケーション学の学士号を取得した学生は(1年間で)8万3000人以上いるが、記者、特派員、ニュース解説者の仕事の「総数」は5万4000だ。歴史学を修めた学生は(1年間で)3万4000人以上いるが、歴史学者として働いている者はアメリカでで3500人しかいない。

仕事に直結しないとしても、高校や大学で学んだことはその後の人生に活かせるとともに、社会の文化レベルを上げるのではないだろうか。だが事実(ファクト)を見るかぎり、この通説が正しいとはいえない。

アメリカでは「総合的社会調査(GSS/General Social Survey)」で、12の基本的な科学知識について一般人の理解の程度を調べている。

正誤二択の質問にたまたま正答する割合を調整すると、「地球が太陽の周りを回っていることを知っているアメリカの成人は半数そこそこしかいない」「原子が電子より大きいことを知っているのはわずか32%」「抗生物質ではウイルスは死なないことを知っているのは14%だけ」「進化の知識がある人はゼロをわずかに上回るほどしかいない」「ビッグバンを知っている人は実質ゼロを下回る(コイントスで回答した方が正答率が高い)」ことになる。

これ以外の調査も同様で、それらを総合すると、「大半のアメリカ人が基礎的な読み書き計算能力を有しているが、優秀と言えるのは13%にすぎない」。歴史、公民、科学、外国語では、初歩を身につけている人すらほとんどいない。「学校がこれらの科目を教えている」というのは言い過ぎで、「これらの科目について教えている」だけだ。「何年間も授業を受けた結果、アメリカの成人は歴史、公民、科学、外国語というものが存在することは知っている。以上」とカプランはまとめている。

なぜこんなことになってしまうのか。理由のひとつは、脳が使用頻度の低い知識を記憶しておくことが苦手だからのようだ。高校で代数と幾何学を取った人の大半は5年後には学んだ内容の半分を忘れ、25年後にはほぼすべてを忘れている。大半のアメリカの成人が保有している学校で学んだ知識は、(使用頻度の高い)基本的な読み書きと計算以外はないに等しい。「平均的なアメリカ人は他の科目の勉強に何年も費やしているのに、それについてはほぼ何も覚えていない」のだ。

学習した内容を覚えていなくても、教育によって培った考え方(論理的な思考方法)は将来の役に立つのではないだろうか。

先に学習したことが、後に学習することに影響を及ぼすことは「学習転移」と呼ばれ、多くの実験研究が理想的と思われる条件でなされている。そのなかのひとつに、軍事の問題の解決法を学び、それを使って医療の問題を解決できるかという古典的実験がある。その結果はというと、学習したことを他の事例に転用できた被験者は5人に1人しかいなかった。

アリゾナ州立大学の学生を対象に、「日常的な出来事についての推論に、統計の概念と方法論の概念を適用できるか」を調べた研究では、高校と大学で6年以上、実験科学から微積分まで学んできたにもかわらず、学生たちは、新聞や雑誌の記事に書かれている日常的な出来事について「方法論を用いた推論」の真似事すらできなかった。回答の圧倒的多数は0点で、「優れた科学的回答」と認められたのは1%に満たない。「被験者は比較対照群、そして第3の変数の制御が必要であることをまったく無視して、「食生活」の例に「きちんと食べるに越したことはない」のような意見で回答していた」のだ。

もちろん、教育の成果がすべて否定されるわけではない。「大学の授業を受けると批判的思考のテストの得点が高くなる」という勇気づけられる調査結果もある。問題は、「教育は教室の外まで批判的思考の向上を継続させることはできていない」ことだ。

多くの研究が明らかにしたのは、教育によって能力が伸びるのは、学生自身が勉強し修練を積んでいるタスクだけだということだ。これは要するに、「面白いと思ったり、得意だったりする分野は、熱心に勉強するから成績が上がる」ということで、教育の成果というより本人の適性ですっきり説明できるだろう 。

ほとんどの生徒は授業に退屈している

教育者なら誰もが知っていながら、あえて口にしないもうひとつの「不都合な事実」が、「生徒たちの大半は授業に退屈している」だ。

高校生の学校に対する感情を調べた「高校生エンゲージメント調査(The High School Survey of Student Engagement)」によれば、高校生の66%が「毎日」授業で退屈しており、17%は毎日「すべての」授業で退屈している(授業が退屈でないという生徒はわずか2%だった)。内訳を見ると、82%が「授業に関心がない」、41%が「授業内容が自分と関係ない」からとこたえている。

中学生に電子端末を渡し、リアルタイムで彼らの気持ちをとらえようとした調査では、生徒たちは授業時間の36%で退屈を感じ、授業以外の活動時間でも17%で退屈していた。生徒の3人に1人が授業に、ほぼ5人に1人が学校そのものに関心がないのだ。

大学生の退屈に関する研究はすくないが、イギリスの調査では59%が講義の半分以上で退屈していた。だからこそ、25~40%の大学生が授業に出てこないのだろう。

プリンストン感情・時間調査(PATS/Princeton Affect and Time Survey)では、無作為抽出したアメリカ人のサンプルに電話をかけ、前日をどのように過ごし、どう感じたのかを調べている。それによれば、教育(3.55)は仕事(3.83)とともに「不快」な活動の最下位を争い、苦痛で最下位の高齢者介護よりかろうじて上だった。

それにもかかわらず、学生たちはなぜ我慢して学校に通うのか。それは現代社会(知識社会)において、学歴が雇用主に対する強力なシグナリングになるからだ。

クジャクのオスは大きくきらびやかな尾羽をもつが、あまりに重くて飛ぶことも逃げることもできなくなり、捕食者の格好の餌食になってしまう。これでは生存にはなんの役にも立たないばかりか、かえってマイナスだ。

ダーウィンはこの問題に悩んだ末に、これを性淘汰で説明できることに気がついた。なんらかの理由でクジャクのメスがオスの大きな尾羽を好むようになれば、「利己的な遺伝子」をできるだけ多く後世に残すために、オスたちは尾羽を生存の限界まで大きくする熾烈な「軍拡競争」に突入する。このときオスの尾羽は、メスに対して「ぼくとセックスすればよりよい子どもができるよ」というシグナルになる。

同様に知識社会では、学歴は雇用主に対して、「わたしを雇えば得をする(高い生産性で利益をもたらす)よ」というシグナルになっている。雇用主が従業員に求めるのは高い知能と高い協調性・堅実性(真面目さ)だが、学歴はこれを低コストで選別できるようにする。難しい入学試験に受かるのは知能が高いからであり、退屈な授業に耐えて卒業までこぎつけたのは協調性と堅実性が高いからだ。これが中退(入学によって知能は証明できたが、協調性・堅実性は証明できていない)よりも卒業証書が大きな価値をもつ理由だ。

シグナリング・モデルの基本要素は以下の3つだ。

1) いろいろなタイプの人間がいなければならない
2) 個々人のタイプは見た目ではわからない状態でなければならない
3) タイプの間には平均に対して目に見えて違いがなければならない

雇用主にとって採用は、この条件を満たしている。実際に働かせてみればほんとうの実力は明らかになるだろうが、それを短い試用期間で見抜くのは至難の業だし、正社員として雇ってから「使えない」とわかっても、解雇には大きなコストがかかる。だとすれば、学歴による「統計的差別」を利用して、(統計的には優秀な)学生を優先的に採用するのがもっとも合理的なのだ。――「おかしな内容を勉強した見返りとして雇用主が給料を上乗せする」といってもいい。

問題はこれによって、クジャクの尾羽と同様に、「学歴の軍拡競争」が勃発することだ。かつては高卒でも「高学歴」だったのに、いまでは大卒が当たり前になり、ITや金融のような高収入の仕事では修士号や博士号をもっていなければ「高学歴」とは見なされないようになった。

増えつづける大卒者に見合う職がなくなっている

仕事に対して学歴が高すぎるのが、「学歴過剰(overqualified)」だが、労働経済学では、受けた教育に比べて仕事の内容が不十分なことを「不完全就業(malemployed)」と呼ぶ。不完全就業(学歴過剰)は、大きく3つの方法で計測されている。

「非典型教育」法では、受けた教育が就いた職業に対して並外れて高いかどうかを調べ、不完全就業率は10~20%だ。

「自己報告法」では、研究者が労働者に、自分の職業に対して受けた教育が過剰か、不足しているか、十分かを質問する。この方法では、不完全就業率は20~35%になる。

「職務分析法」では、研究者が職業を一つひとつ解剖し、その職業に「本当に要求される」教育程度を判断したうえで、労働者の教育がその要件に対して過剰かどうかを確認する。不完全就業率は20~35%だ。

不完全就業の割合がこれほど高いと、レジ係(大卒者が就いている仕事の上位48位)やウェイター(50位)として働く大卒者の方が機械技師(51位)より多いのも不思議ではない。同様に、警備員(67位)や用務員(72位)として働く大卒者はネットワークシステム/コンピュータシステム・アドミニストレーター(75位)より多く、料理人(94位)やバーテンダー(99位)として働く大卒者は司書(104位)より多い。

それに加えて、アメリカの大卒者の不完全就業率は年々上がってきている(2000年の25.2%から2010年には28.2%に上昇した)。リーマンショック後の世界的な不況では、最若年の大卒者の不完全就業率は40%に迫った。アメリカの高学歴の若者たちは、学歴にふさわしい仕事につけていないという大きな不満を抱えている。これが、バーニー・サンダースを熱烈に支援するラディカル・レフトの運動に結び付いたのだろう。

カプランによれば、不完全就業の背景には「学歴が急ピッチで上がりすぎている」ことがある。学歴の軍拡競争に巻き込まれて、多額の借金(学生ローン)を抱えながらなんとか大卒の学歴を取得しても、それに見合う仕事が足りなくなってしまった。「情報化時代についての常套句とは裏腹に、仕事より労働者の方がはるかに変化が速い」のだ。

とはいうものの、学歴社会では、教育が個人にもたらす利益はあいかわらず大きい(だからこそみんなが夢中になって高い学歴を目指す)。問題は、「教育はパイを大きくできないから、誰かの取り分が大きくなれば、別の誰かの取り分は小さくなる」ことで、経済学ではこれを「シグナリングは負の外部性である」という。

学歴というシグナルは、クジャクの尾羽同様、実用的な価値がない。カプランは、高校・大学教育の80%ちかくはシグナリングだとしている。これほど無駄が多ければ、社会にとっては大打撃だ。

アメリカでは、2008年の生徒1人当たりの民間支出は平均900ドル(約10万円)で、それに対して政府の支出はおよそ1万1000ドル(約120万円)だった。2011年にアメリカ連邦政府、州政府、地方自治体が教育に費やした額は1兆ドル(約110兆円)ちかい。

一部の著名な経済学者は、国民の教育程度が上がると国はゆたかになるどころか少し貧しくなるとしている。これは極論としても、経済学者のあいだでは、「教育に社会的なプラス効果があるとしても、それはスズメの涙ほど」という広範な合意があるようだ。

一番よい教育政策は教育をなくすこと

教育の大半が(無意味な)シグナリングで、若者は退屈な学校に押し込められ貴重な時間を無駄にするばかりか、「学歴の軍拡競争」によって多額の借金まで負わされている。この理不尽な現状を変えるにはどうすればいいのか。カプランの提案はシンプルで、「国家が教育から手を引く」ことだ。

まず、「高校以下で歴史、社会、美術、音楽、外国語を教える必要は、実際のところない」。公立大学も非実用的な学部を閉鎖すべきだ。

こうした「役に立たない」学問を学びたいひともいるだろう。その場合は、政府の助成金やローンを受けられない私立大学に非実用的な専攻の学科を創設すればいい。――日本なら、カルチャーセンターで「一流」の講師に興味のある分野を教えてもらえばいいだろう。

次に、公立大学の授業料を大幅に値上げする。助成金はカットするかローンに変えて、借りた学生には市場金利を請求する。私立大学に税金を投入するのをやめ、大学の運営は学費と民間の慈善活動だけでまかなう。なぜなら、「ふつうの人は大学に行くべきではない。もっと言ってしまえば、今のふつうの大学生は大学に行くべきではない」からだとカプランはいう。

こうした「改革」によって大学に行けない若者が増えるが、教育の80%がシグナリングだとすれば、これは悪いことではない。学費の高騰で「学歴の軍拡競争」が続けられなくなれば、雇用主は学歴以外の(より公正な)方法で応募者を採用せざるを得なくなるだろう。

大学進学者が減れば、高卒の学歴が重視されるようになるかもしれない。しかしその場合でも、全員がひとつ下の学歴になるのだから、1人当たり4年分の教育費用が削減できる。

それと同時に、職業教育を充実させる 高校で無駄に過ごすよりも仕事のスキルを身につけた方がずっといいし、退屈な授業に耐えることを強要するよりも、児童労働を認めて、早めに社会に出してオン・ザ・ジョブ・トレーニングをさせるべきだという。

教育が労働者の質の保証にすぎないなら、みんなが教育程度を下げた方が社会にとってはいいはずだ。とはいえこれは、国家が子どもたちの幸福の実現から手を引くことではない。教育支出を80%削減すれば、大型の児童税額控除か、直接支給の児童手当の資金源にできる。これによって子どもの貧困は劇的に解消されるだろう。

労働市場が高い教育を求めるのは、教育が誰の手にも届くからにほかならない。助成金がなくなれば、手に届かなくなった教育はもはや必要なくなる。「一番よい教育政策は教育をなくすこと」なのだ。

こうした提案はどれも、「教育の理想」を掲げるひとたちにとっては腰が抜けるようなものばかりだろうが、膨大なエビデンスをロジカルに検証すればこうした結論に至るほかないことをカプランは説得力をもって示している。それにもかかわらず多くのひとが「教育神話」にとらわれているのは、個人にとって利益になること(これは間違いない)が、社会にとっても利益になること(こちらは間違い)だと素朴に信じているからだ。

知能の高い教育者は、この誤解を逆手にとって、教育に税金を投入させて懐を肥やしている。この悪弊を止めるには、学校と国家を完全に切り離し、「政府はいかなる種類の教育も税金を使って財政支援するのをやめるべき」なのだ。学歴競争の過熱化は社会正義の追求の本道から外れており、「ディストピア的な未来を恐れるよりも、ディストピア的な現在を見つめるべき」だとカプランはいう。

そのカプランは大学教授として、教育のシグナリング効果から大きな利益を得ている。この提案が実現すれば多くの教育者が職を失うだろうし、カプラン自身もその例外ではないかもしれない。

だが「教育神話」はあまりにも強力なので、一介の経済学者がなにをいったところで「学歴の軍拡競争」が終わるはずはない。だとしたら、知識人としての特権を享受しながら「正しい」ことを主張するのがもっともコストパフォーマンスが高いというのが、この「偏屈」な経済学者の合理的なシニシズムということになる。

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