だいずせんせいの持続性学入門

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原発震災(59)10年の節目でのメッセージ

2021-03-22 10:58:09 | Weblog

東北の震災と原発事故から10年がたった。もう10年という思いとまだ10年という思いが交錯する。メディアにはこれでもう大きくは取り上げられなくなるだろう。しかし、復興はまだみちなかばであるし、原発事故はまだ現在進行形だ。10年は通過点でしかない。それでも当時の子どもたちは随分大きくなった。被災者はそれぞれに新しい生活に踏み出している人が多い。その節目に私からのメッセージをお話しする機会をいただいた。豊田市旭地区のつくラッセルで愛知県被災者支援センターと共催で昨日開催されたソプラノの竹内支保子さんのファミリーコンサートの中で、以下のお話をさせていただいた。

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 私は震災の年の6月に初めて福島を訪問しました。私の友人が先に支援のあり方を探りに福島入りしており、彼が「とにかくきてくれ」というので、専門家用のガイガーカウンターを大学から借り受けて持って行きました。福島駅を降りてみると普通の駅前の景色で、多くの人が行き交っていましたが、スイッチを入れると、ピーと機械が鳴りっぱなしになって事態の深刻さを理解しました。それから何度も福島に通いましたが、そのうち、ガイガーカウンターを持っていくのをやめました。そのかわりに私が趣味でやっているトロンボーンを持って行くようになりました。放射能を測定する必要があるなら、福島に住んでいる人が自ら測定すれば良い。実際そのような支援を行いました。よそ者が放射能を測って回るのは、福島で暮らしている人に対しては一種の暴力だと感じたからです。

 私はトロンボーンを持って、福島でできた友人たちにただ会いに行くことが福島に行く目的となりました。そうやって時々会いに行くことが自分にできる唯一のことではないかと思うようになりました。東北の津波の被災地では「いるだけ支援」という言葉が生まれました。仮設住宅の一部屋を借りて、大学生たちがただそこで暮らす。それが仮設のお年寄りたちに何よりの励みになったのでした。

 何かをやってあげる支援は、もちろん初期には必要でしたが、状況が少し落ち着いてくると、被災者にとってはむしろ重荷になっていったと思います。そのすべてが必ずしも本当に必要なものではなかったと思います。それでも何かをしてくれた人たちに、いちいちありがとうと感謝しなければなりません。それは場合によってはある種の暴力になります。To doが大事なのではなくて、ただ普通にそばにいること、to beが大事なのだということを支援のあり方を模索する中から私たちは学びました。

 このつくラッセルを立ち上げた戸田さんは、豊田市が行った一つのプロジェクトを任されてこの旭地区にやってきました。「日本再発進若者よ田舎をめざそうプロジェクト」というもので、過疎が進む田舎に若者が移住して地域の担い手になるよう行政がお金を出して支援するというものです。彼らはこの山間地域で有機農業をやって、生産物を都会に持って行って売り、株式会社として経営が成り立つようにし、雇用を生み出し、ここに住むことができるようにしようというものでした。全国から募集した10人の若者がやってきて戸田さんの会社の社員として有機農業にチャレンジし始めました。ところが農業の経験のない人ばかり、しかもその年は特別に暑い夏で作物は思うように育ちませんでした。メンバーは早く成果を出して、受けいれてくれた地元の人たちに恩返しをしなくてはと、焦る気持ちが募りました。その結果、チームは心がバラバラになりプロジェクトは空中分解しそうになりました。その時に地元の人は彼らにこう言ったのです。「何もできなくてもいいじゃないか。あんたたちがここにいてくれるだけで嬉しい、それだけでいいんだ」と。そこで戸田さんはプロジェクトの方向を大きく変えて、メンバー一人一人がこの地でどういう暮らしをしたいのか、そのための準備と支援をすることにしました。彼らもto doが大事なのではなくて、to beが大事だということを学んだのでした。

 彼らは当初、地域の中で強い存在になって地域を支えようと考えました。でも実際は自分たちの弱い姿を突き付けられました。戸田さんはむしろ弱さを大事にして、弱さを皆で共有して、そこから何ごともスタートするようにしました。そこは安心できる場所です。その安心の中から次のステップに踏み出す勇気が生まれます。そうやって「ここにいるだけでいい」というあり方を大事にしながら、結果としては様々な事業が生まれ、雇用が生まれ、移住してきた人たちの暮らしが成り立っています。

 福島や関東地方から愛知に避難してこられたみなさんは、この10年で多くのものを失ったことと思います。なんということはない平凡な日常、仕事、チャンス、家族の絆、友人たちや地域とのつながり。それらを数え上げようとすれば大変たくさんのリストになるでしょう。でも私は、生きるというのはそもそも何かを失い続けることではないかと、最近思うようになりました。私もこの10年で生活が激変しました。マイホームを出て一時は車中泊生活をしたのちに、この旭地区のお寺でしばらく若い人たちと共同生活をしました。避難生活ですね。その後妻と離婚し、岐阜県の山の中に移住しました。今でも自分が住んでいない家の住宅ローンを払い続けています。子供たちとはそれ以来一度も会っていません。多くのものを失いました。でも考えてみればこの先もいろいろと失っていくでしょう。若さを失い、健康を失い、そして最後は命を失います。

 でも失うということはその前にそれを手に入れていたということです。失い続けるということは、同時に、何かをもらい続けているということでもあります。避難者の皆さんもこの10年の間にたくさんのものを受けっとってきたのだと思います。そのリストもきっと膨大なものになると思います。私もこの旭地区で「避難生活」をしている間に、友人達があれこれと助けてくれました。新しく移住した先で楽しく暮らしています。感謝しかありません。失うものがあれば得るものがあります。私は失うものにフォーカスする必要はないと思います。得たもの、頂いたものにフォーカスして、次はその分を他の誰かに何かを差し出せるよう生きていきたいと思います。

 福島では人が住んでいるところは除染がされ、10年が過ぎて放射能自体が弱くなっていて、放射能の問題はほぼないと思います。ただ広大な山林は除染しようがなく、まだ比較的強い放射能があります。福島では食品に混入している放射能は10年経ってもずっと測定がされています。田畑で栽培される作物にはもう放射能はほぼ検出されません。未だに高い数値が検出されて出荷制限の対象になっているのは野生のキノコやイノシシの肉です。これはどういうことかというと、キノコが土壌に薄く広く含まれている放射能を取り込んで生物濃縮しているということです。それをイノシシが食べて、さらに濃縮しているわけです。これは山林の放射能を生き物たちが除染してくれているとも言えます。私たちが本当に感謝しなければならないのは、これらの生き物たちではないでしょうか。人間のせいで大変な迷惑をかけてしまっているのに、生き物たちは体を張って除染までしてくれています。それを食品が放射能で汚染されているという見方しかしないのではキノコやイノシシに全く申し訳なく思います。イノシシが内部被曝で病気になって死んだとしても、補償のしようがありません。イノシシから見たら、東電の人も政府の人も私たちも同じ人間ということになります。その悲しみをイノシシに貝殻に入れてもらって受け取ることができればどんなに良いかと思います。昔の田舎の人は動物たちとそういうコミュニケーションをする能力がありました。私たちはそれを失ってしまいました。思いをはせることしかできませんが、その痛みと悲しみをただ受け止めて私たち人間は生きるしかないのだと思います。ぜひ福島の山林で繰り広げられているいのちの営みに思いを馳せて毎日を過ごしていただければと思います。

 ご清聴ありがとうございました。

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