ラヴジョイとマッカーシー『ステラ・マリス』:異世界性とこの世性

先日からずっと、ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』の勝手な翻訳とまとめをやっているのはご存じのとおり。

cruel.hatenablog.com

残った一つの章は、とっても大事なんだけれど長いので、仕上がるのはかなり先になるとは思う。が、それとは別の余談。

先日、コーマック・マッカーシー遺作『通り過ぎゆく者』『ステラ・マリス』邦訳が出た。

ステラ・マリス 通り過ぎゆく者 

で、決してわかりやすい本ではないので、ほとんどの人はたぶんチンプンカンプンだと思う。これまでに出てきた感想を見ても、読点のない乾いた文体と残酷な世界が〜、原爆が〜、みたいな訳者あとがきの反芻みたいな感想文ばかりで、あんまりおもしろい書評は見ていない。これは別に日本だけではなく英語のレビューとかでも同様。

たぶんこのままだと、みんな敬遠してだれも何もきちんとしたことを言わないままになっちまうといやだな、と思ったんだ。昔、朝日新聞の書評委員だった頃、気楽に読めて書きやすい本だと、書評もみんな気楽に書くんだけど、重要な本、面倒な本となるとみんな敬遠して流れてしまいそうになり、宮崎哲弥が「これに書評委員会としてコメントしなくていいのか!」と怒って、じゃあやりましょうと山形が引き受けるようなことが何度かあった (そういや、なんでぼくばっかが引き受けたんだっけ。なんで宮崎さんが自分でやんなかったんだっけ)。だから、だれか何か言っておくべきだと思ったので、山形月報のほうでかなり詳しく触れたんだ。

yamagatacakes.hatenablog.com

そこでの議論の基本的なところは、天才妹の数学的世界観というのは純粋観念の世界で、物理学者だった兄の世界観は物質的なこの世が前提となっていて、そして両者はものすごく深く関連しあい、求めあっているんだけれど、最後の最後で相容れないんだ、というもの。「この世とは何か、それと人間の関係とは」というのを追求していたマッカーシーが、20世紀初頭にそれを任された数学/自然科学における世界観と自分の探究をつなげようとした作品で、必ずしも成功作とはいえず、咀嚼不足であまりに材料がむき出しだけれど、野心的な作品だよ、というのがこの書評のあらすじ。

そして考えて見ると、これって実はラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』のテーマとまったく同じなのだ。

 

西洋哲学/神学は、プラトン以来ずっと、神様は完璧で自分で完全に完結している至高のイデア、この世の出来損ないの連中なんかとは無縁で、人間なんかそれを見ただけで目が潰れます、という「異世界性」の観念の神様と、でもなぜだかわかんないけど、こんなろくでもないダメな世界でも作った、この世と切り離せない存在という「この世性」の神様を併存させてきた。そしてその両者でなんとか折り合いをつけようとして、ずっと屁理屈をこねたけれど (ダメな世界でも作ってくれるほどすごいのか、ダメな部分も全体の善の総和を最大化するためには必須なので実は善なのか、神がダメな世界しか作れない無能なのか云々)、二千年かけてそれがついに破綻しました。というのが『存在の大いなる連鎖』の主題だ。

cruel.hatenablog.com

そして、これと『通り過ぎゆく者』『ステラ・マリス』の対応は明らかだと思う。

妹の数学的観念世界は、『ステラ・マリス』の中でまさにプラトン的観念の世界とか言われている。完全に人間もこの世とも独立に存在する「異世界性」だ。

一方、兄は(元) 物理学者なので、この世と無関係の観念世界というのは容認できない。物理学は、この世に基づき実証できなきゃいけない。兄はこの世性を代表する存在だ。でも、数学的世界観とは切り離せない。物理学はますます数学の抽象観念的な入り込んでいる。ヒッグス粒子以上のものなんて、実証できないじゃん、数学のお遊びじゃん、という悪口がずっとつきまとっている。

それは、彼と妹の関係でもある。そして二人は強い絆を持ちつつ一線を兄が拒否し、妹が死に、そしてその後兄がその妹の世界に次第にとらわれる……

  その図式があまりに露骨なのが、この二部作の欠点であり、さっき「咀嚼不足」と書いた所以ではある。が、それでも個人的には、たまたま手に取っていた、ラヴジョイとマッカーシーという二つのものが、こうやって交錯したのがおもしろいなと思うし、ひょっとしたらマッカーシーも数学/物理以上の構想を持っていたのかも、と考えたりすると、ちょっと楽しくはある。小説としてもっと咀嚼しようとしたら、主人公をもう少し、マッカーシーらしい素朴な人間にして、それが存在の大いなる連鎖の通俗版をなんとなく口走り〜みたいな展開もあったのかな、とかね。が、それは妄想の域に入る。

この話は、山形月報のほうにも加筆したけれど、別建てでも書いておくべえと思ってここに書いた次第。もちろんこれが絶対正しいわけじゃない。ひょっとすると、ラヴジョイを訳していたので、その考え方にひきずられてこういう読み方をしてしまった可能性はある。小説なんていろいろ読み方はあるんだし。が、まったくピントはずれではないと思うよ。

追記:ふと思ったんだが、ぼくがここで書いていることはそこそこ高度で、この作品について書こうと思った人はこれを見てかえってビビって、むしろ敬遠される結果になるのでは、という気もする。こんな、変な科学数学哲学おたくみたいなネタに惹きつけない健全な読みがあるぜ、という確信のある人もいると思うんだけどねー。一方で、ほとんどの人はそこまで明確なイメージを持って読んでいないだろうという気もする。そういう読者だと「あー、そんなクソむずかしい本でございましたか、うかつなことは言えないな」みたいに思っちゃうのでは、とも思う。が、まあそういうふうになっても仕方ないとは思う。

付記:

本書を読んで、『ステラ・マリス』では兄は死んでいる/臨死状態じゃないか、という説が出ていた。冒頭部分 (p.15) で兄が自動車事故で頭を打ってもう2ヶ月も昏睡状態だ、というのが出てくるから、ということのようだ。それ自体は正しいんだけれど、

  • 妹がステラマリスに入院
  • その後退院して兄とヨーロッパへ
  • 兄の事故で戻って再入院 (これが『ステラマリス』の話)
  • 『通り過ぎゆく者』冒頭
  • その後兄が覚醒してダイバーに
  • 不思議な事件が起きて兄は妹と自分の足取りをたどる(『通り過ぎゆく者』の話)

というタイムラインをたどっているだけで、『通り過ぎゆく者』が昏睡状態の妄想だとか、この二作がパラレルワールドだ、みたいな解釈に走る必要はないと思う (マッカーシーはそういうのやらないし)