2020年09月18日
アリストテレスの〈中庸〉
概念的意味と実在の関係について一言述べておこう。
数の存在や場所の存在がその同一性規準や本質(たとえばペアノの公理とか座標)とともに我々の存在領域に導入されるように、実在性はその存在者の本質規定を伴って導入される。何らかのノエマ的意味に対して、魔法使いが魔法の棒を振るように、その本質や提示内容(意味)とは独立して、のっぺらぼうの実在性が付与されるというわけではないのだ。伝統的な神の存在証明に対するカントの批判に登場する「実在の百ターレル」と「観念の百ターレル」の話を一般化して、実在の意味論的役割、形而上学的身分について、軽薄としか言いようのない誤解(たとえば、フッサールの「現象学的還元」など)が広がっているので、明らかにしておきたいと思うのだ。
もとより、「百ターレル」のような例だと、その概念の理解が、それが表示する対象の実在性を含意しないことは明らかであるが、「シーラカンス」のような自然種名や「ソクラテス」のような固有名だとどうであろうか? パトナムの双子宇宙の思考実験を待つまでもなく、フレーゲの意味の理論の枠組みでも、SinnはBedeutungの実在を前提とするはずだ。私は、このことを指摘した有名な逸話として、シェーラーに対するルカーチの機知にとんだ批判に言及したことがある(『読む哲学事典』p−142)。シェーラーは、「悪魔について、その実在の問題は括弧に入れてその現象学的吟味を行うことができる」と語ったというのである。
存在は経験の意味の理解と不可分のものとして導入される。このことを非常に印象的に示すものとして、アリストテレスの〈中庸〉の観念を参照しよう。アリストテレスの〈中庸〉は、両極端の悪徳をたして二で割ったものが美徳であるというのではない。勇気が臆病と向こう見ずの中庸であるのは、「危険を嫌う性格」と「危険を好む性格」というそれ自体は没倫理的な規定を、勇気という美徳の発見によって、二種類の欠如として再定義するということである。
勇気は、重装歩兵の戦法から、もっとも有効に力を引き出すという観点から、絶妙なバランスが決定されるという事に基づいている。この実在する一点の発見こそが、勇気を勇気として際立て、臆病と向こう見ずを、それぞれ勇気の欠如として、二つの悪徳として再規定するのである。
ここでは実在(とその発見)こそが、その不在・欠如をあらためて差異化するのである。実在は自らを勇気として際立てることによって、他をその欠如として際立てるのであり、その逆ではない。ここにはアリストテレスの自然学(『デ・アニマ』)を貫く主題がある。ここにある非対称性を見逃すことはできない。実在と非実在、発見と隠蔽、真理(アレーテイア)とその欠如のあいだの非対称性に注目することこそ、古代ギリシア人の知恵であり、ダメットが反実在論と呼んだものの中心眼目なのである。
勇気の例に見るように、実在が意味を伴って、あるいは一つの意味として生成するとき、実在性とその意味とを切り離すことができないのは明らかである。
たしかに、「存在」がいわゆるレアルな(事象内容を規定する)述語ではないことはその通りであるが、それは存在が意味理解にかかわらないという事ではない。それはしばしばレアルな述語の意味理解そのものを可能にする。たとえば、「勇気がある」というレアルな述語は、勇気の実在によってはじめて可能になるのだ。
意味と事実、本質と実存を峻別する通俗的意味理解を越えて、新たな実在の発見による新しい観点、新しい経験の可能性すなわち意味の生成に注目するなら、本質存在と区別される現実存在(一種ののっぺらぼうの実在性)の探究などに、存在論の眼目があるわけではないことは明らかである。かかる視野狭窄は、制作を意味論と存在論のモデルとしてしまう傾向――アリストテレスにおいてさえ、すでに一部始まっていた傾向――に由来しているのである。
私は繰り返し、問題解決や証明自体を実在の生成と見なさねばならないとと論じてきた(『読む哲学事典』p−127)。さもなければ、解けなかった問題が解けるようになるという変化が、理解できなくなってしまうからである。(この変化は、指示同定できなかったものが、生成して指示できるようになる変化としてのみ理解できる。)
そうなると、今度は問題の存在そのものも自動的に理解できなくある。解決できないことがわかっているものは、そもそも問題ではないし、解決がわかっているものも問題ではありえないからだ。解決や証明という実在が、のっぺらぼうであることはあり得ない。その生成は実在の生成であると同時に、意味の生成なのである。
数の存在や場所の存在がその同一性規準や本質(たとえばペアノの公理とか座標)とともに我々の存在領域に導入されるように、実在性はその存在者の本質規定を伴って導入される。何らかのノエマ的意味に対して、魔法使いが魔法の棒を振るように、その本質や提示内容(意味)とは独立して、のっぺらぼうの実在性が付与されるというわけではないのだ。伝統的な神の存在証明に対するカントの批判に登場する「実在の百ターレル」と「観念の百ターレル」の話を一般化して、実在の意味論的役割、形而上学的身分について、軽薄としか言いようのない誤解(たとえば、フッサールの「現象学的還元」など)が広がっているので、明らかにしておきたいと思うのだ。
もとより、「百ターレル」のような例だと、その概念の理解が、それが表示する対象の実在性を含意しないことは明らかであるが、「シーラカンス」のような自然種名や「ソクラテス」のような固有名だとどうであろうか? パトナムの双子宇宙の思考実験を待つまでもなく、フレーゲの意味の理論の枠組みでも、SinnはBedeutungの実在を前提とするはずだ。私は、このことを指摘した有名な逸話として、シェーラーに対するルカーチの機知にとんだ批判に言及したことがある(『読む哲学事典』p−142)。シェーラーは、「悪魔について、その実在の問題は括弧に入れてその現象学的吟味を行うことができる」と語ったというのである。
存在は経験の意味の理解と不可分のものとして導入される。このことを非常に印象的に示すものとして、アリストテレスの〈中庸〉の観念を参照しよう。アリストテレスの〈中庸〉は、両極端の悪徳をたして二で割ったものが美徳であるというのではない。勇気が臆病と向こう見ずの中庸であるのは、「危険を嫌う性格」と「危険を好む性格」というそれ自体は没倫理的な規定を、勇気という美徳の発見によって、二種類の欠如として再定義するということである。
勇気は、重装歩兵の戦法から、もっとも有効に力を引き出すという観点から、絶妙なバランスが決定されるという事に基づいている。この実在する一点の発見こそが、勇気を勇気として際立て、臆病と向こう見ずを、それぞれ勇気の欠如として、二つの悪徳として再規定するのである。
ここでは実在(とその発見)こそが、その不在・欠如をあらためて差異化するのである。実在は自らを勇気として際立てることによって、他をその欠如として際立てるのであり、その逆ではない。ここにはアリストテレスの自然学(『デ・アニマ』)を貫く主題がある。ここにある非対称性を見逃すことはできない。実在と非実在、発見と隠蔽、真理(アレーテイア)とその欠如のあいだの非対称性に注目することこそ、古代ギリシア人の知恵であり、ダメットが反実在論と呼んだものの中心眼目なのである。
勇気の例に見るように、実在が意味を伴って、あるいは一つの意味として生成するとき、実在性とその意味とを切り離すことができないのは明らかである。
たしかに、「存在」がいわゆるレアルな(事象内容を規定する)述語ではないことはその通りであるが、それは存在が意味理解にかかわらないという事ではない。それはしばしばレアルな述語の意味理解そのものを可能にする。たとえば、「勇気がある」というレアルな述語は、勇気の実在によってはじめて可能になるのだ。
意味と事実、本質と実存を峻別する通俗的意味理解を越えて、新たな実在の発見による新しい観点、新しい経験の可能性すなわち意味の生成に注目するなら、本質存在と区別される現実存在(一種ののっぺらぼうの実在性)の探究などに、存在論の眼目があるわけではないことは明らかである。かかる視野狭窄は、制作を意味論と存在論のモデルとしてしまう傾向――アリストテレスにおいてさえ、すでに一部始まっていた傾向――に由来しているのである。
私は繰り返し、問題解決や証明自体を実在の生成と見なさねばならないとと論じてきた(『読む哲学事典』p−127)。さもなければ、解けなかった問題が解けるようになるという変化が、理解できなくなってしまうからである。(この変化は、指示同定できなかったものが、生成して指示できるようになる変化としてのみ理解できる。)
そうなると、今度は問題の存在そのものも自動的に理解できなくある。解決できないことがわかっているものは、そもそも問題ではないし、解決がわかっているものも問題ではありえないからだ。解決や証明という実在が、のっぺらぼうであることはあり得ない。その生成は実在の生成であると同時に、意味の生成なのである。
easter1916 at 22:53│Comments(5)│
│哲学ノート
この記事へのコメント
1. Posted by ひとり 2020年10月11日 02:08
記事を拝読して「罪の実在性についてはどうなのだろう?」という疑問が湧いたので、『魂の美と幸い』所収の『イエス論序説』を部分的に再読しました。
そこでは、イエスによって罪が許される(病から罪という意味が取り除かれる)ことによって、返って罪こそが救済を渇望し救済に固執する一つの病であるということが明らかになる、と言われています。罪が許され取り除かれるという経験があって初めて、その罪が何であったのかが再定義されるという意味で、罪と贖罪の間にも非対称性があると言えるでしょうか。
そう考えますと、例えばキルケゴールが『死に至る病』の第二編で言っているように罪を「神の前」にあるものだとし、神こそを罪の唯一の尺度とすることは(そのようにして罪=絶望を純化することは)、そうした非対称性による罪の再定義、罪の意味が生成するということの可能性を奪ってしまうと言えるのではないでしょうか?
私はキルケゴールをしばしば読みますが、特に『死に至る病』では、罪が深まるとかより強く罪を意識するとかいう表現が頻出する一方で「結局全ての罪は神の前で犯される」という論点先取りを行う為、そうした表現が具体的に何を意味するのか(罪が深まるというのは何がどうなることなのか)いまいちはっきりしないのです。
そこでは、イエスによって罪が許される(病から罪という意味が取り除かれる)ことによって、返って罪こそが救済を渇望し救済に固執する一つの病であるということが明らかになる、と言われています。罪が許され取り除かれるという経験があって初めて、その罪が何であったのかが再定義されるという意味で、罪と贖罪の間にも非対称性があると言えるでしょうか。
そう考えますと、例えばキルケゴールが『死に至る病』の第二編で言っているように罪を「神の前」にあるものだとし、神こそを罪の唯一の尺度とすることは(そのようにして罪=絶望を純化することは)、そうした非対称性による罪の再定義、罪の意味が生成するということの可能性を奪ってしまうと言えるのではないでしょうか?
私はキルケゴールをしばしば読みますが、特に『死に至る病』では、罪が深まるとかより強く罪を意識するとかいう表現が頻出する一方で「結局全ての罪は神の前で犯される」という論点先取りを行う為、そうした表現が具体的に何を意味するのか(罪が深まるというのは何がどうなることなのか)いまいちはっきりしないのです。
2. Posted by tajima 2020年10月11日 04:19
ひとり様
コメント恐れ入ります。まづ第一に、悪は非存在であり欠如です。しかし罪とは非存在か?といへば、さうではありません。これが難しいところ。キルケゴール的に言へば、有限な我々の有限性(欠如)自体は罪ではないが、それに固執する所に罪が生まれます。なぜそれに固執するのか?それは、我々の自由と関係するのでせう。我々は、たとへ自分の認識の不足がわかっても、容易に撤回しようとはしません。なほ自説に固執し、何とか維持できないかと考へます。意地になると言ってもいい。それ自体は必ずしも罪ではない。意地を張ることも時には必要だから。ゾシマ長老が死んだとき、アリョーシャは何かの奇跡が起こるのを期待します。これが手ひどく残酷な形で裏切られたのは周知のとほりですが、このアリョーシャの中にある盲信とか固執には、青年らしい見どころがあります。(この点については2008年9月1日のエントリーを参照)
しかしやがてこの固執は、自分の有限性ゆゑに有限性に固執する不条理なものになってゆく。それが罪です。ここにはルサンチマンと共通した心性が現れます。おのれの劣位を認識しながら、相手の優位を受け入れられない憎悪や復讐心です。これがためにキルケゴールは、罪とは神の前での罪と考へました。つまり、有限者としての己れを自覚しつつ、無限な神を受け入れられない憎悪と反抗心。この悪は、独立心、自尊心、自由への渇望など、人間の内の最良のものと表裏一体の関係にあるので、やっかいです。
コメント恐れ入ります。まづ第一に、悪は非存在であり欠如です。しかし罪とは非存在か?といへば、さうではありません。これが難しいところ。キルケゴール的に言へば、有限な我々の有限性(欠如)自体は罪ではないが、それに固執する所に罪が生まれます。なぜそれに固執するのか?それは、我々の自由と関係するのでせう。我々は、たとへ自分の認識の不足がわかっても、容易に撤回しようとはしません。なほ自説に固執し、何とか維持できないかと考へます。意地になると言ってもいい。それ自体は必ずしも罪ではない。意地を張ることも時には必要だから。ゾシマ長老が死んだとき、アリョーシャは何かの奇跡が起こるのを期待します。これが手ひどく残酷な形で裏切られたのは周知のとほりですが、このアリョーシャの中にある盲信とか固執には、青年らしい見どころがあります。(この点については2008年9月1日のエントリーを参照)
しかしやがてこの固執は、自分の有限性ゆゑに有限性に固執する不条理なものになってゆく。それが罪です。ここにはルサンチマンと共通した心性が現れます。おのれの劣位を認識しながら、相手の優位を受け入れられない憎悪や復讐心です。これがためにキルケゴールは、罪とは神の前での罪と考へました。つまり、有限者としての己れを自覚しつつ、無限な神を受け入れられない憎悪と反抗心。この悪は、独立心、自尊心、自由への渇望など、人間の内の最良のものと表裏一体の関係にあるので、やっかいです。
3. Posted by tajima 2020年10月11日 04:19
(つづき)
私はと言へば、かつてほどキルケゴールに共感しない自分がゐます。彼はあまりに内面ばかり見つめすぎる。そこにあるのはがらくたばかりでせう。自分の中の罪のかけらなどにこだはっても仕方ありません。世界を広く見渡せば、もっと豊かなもの、美しいもの、幸ひなるものにあふれてゐるのがわかるでせう。たいていの罪は許されてゐるのですから、罪の意識などに悩む必要などありません。我々は、罪を犯すのを過度に恐れてはなりません。むしろ大胆に罪を犯す方がまし。その意味で、キルケゴールのやうに、次第に深まりゆく罪の意識の果てに、突然の反転(回心)が訪れるなどといふのは筋違ひに思へるのです。罪の意識などあまり気にせずに、自由に大胆にふるまってこそ、真の大事が成し遂げられ、「神の栄光」にもかなふのではないでせうか?
私はと言へば、かつてほどキルケゴールに共感しない自分がゐます。彼はあまりに内面ばかり見つめすぎる。そこにあるのはがらくたばかりでせう。自分の中の罪のかけらなどにこだはっても仕方ありません。世界を広く見渡せば、もっと豊かなもの、美しいもの、幸ひなるものにあふれてゐるのがわかるでせう。たいていの罪は許されてゐるのですから、罪の意識などに悩む必要などありません。我々は、罪を犯すのを過度に恐れてはなりません。むしろ大胆に罪を犯す方がまし。その意味で、キルケゴールのやうに、次第に深まりゆく罪の意識の果てに、突然の反転(回心)が訪れるなどといふのは筋違ひに思へるのです。罪の意識などあまり気にせずに、自由に大胆にふるまってこそ、真の大事が成し遂げられ、「神の栄光」にもかなふのではないでせうか?
4. Posted by ひとり 2020年10月14日 01:07
返信いただきありがとうございます。
自らの有限性への固執が無限なるものへの嫉妬や反抗へと深化していく在り様についてのお話は、私自身、思い当たることが非常に多く、よく分かりました。単に自らの内に欠如を認めるだけならば、それを改善しようとしたり、また改善できない自分の弱さに苦しんだり、逆に欠如など無いのだと意地を張ったりするでしょうが、罪はそれとは違った(質の異なる?)ものなのですね。
いただいた返信を元に考えましたが、キルケゴール的な意味での「罪ある者」は自分の欠如については非常によく自覚していて、それが動かしようのない事実であることも認めている。しかしそれを改善する訳でもその事実を否認する訳でもなく、むしろその事実(自らの劣位)を無限なるものへの反抗の核というか、それが無いと無限なるものと自分との関係が保てないほどのものとして見ているのではないかと思いました。
劣等感を持つ者がなにくそと思って優位な者に対抗意識を燃やすのはまだ田島先生の仰る「青年らしい」情熱と言えると思いますが、罪はそれとは違い、本人の中では既に完全に決着がついている。決着がつきすぎているが故にその関係(絶対的に優位である神と劣位にある自己の関係)を利用して、何か別種の闘いを始めるような、それでいてその闘いで相手である神を本気で打ち負かすこともないような、そのようなものではないかと思います(それが人間の最良のものと表裏一体というのも興味深いですが)。
自らの有限性への固執が無限なるものへの嫉妬や反抗へと深化していく在り様についてのお話は、私自身、思い当たることが非常に多く、よく分かりました。単に自らの内に欠如を認めるだけならば、それを改善しようとしたり、また改善できない自分の弱さに苦しんだり、逆に欠如など無いのだと意地を張ったりするでしょうが、罪はそれとは違った(質の異なる?)ものなのですね。
いただいた返信を元に考えましたが、キルケゴール的な意味での「罪ある者」は自分の欠如については非常によく自覚していて、それが動かしようのない事実であることも認めている。しかしそれを改善する訳でもその事実を否認する訳でもなく、むしろその事実(自らの劣位)を無限なるものへの反抗の核というか、それが無いと無限なるものと自分との関係が保てないほどのものとして見ているのではないかと思いました。
劣等感を持つ者がなにくそと思って優位な者に対抗意識を燃やすのはまだ田島先生の仰る「青年らしい」情熱と言えると思いますが、罪はそれとは違い、本人の中では既に完全に決着がついている。決着がつきすぎているが故にその関係(絶対的に優位である神と劣位にある自己の関係)を利用して、何か別種の闘いを始めるような、それでいてその闘いで相手である神を本気で打ち負かすこともないような、そのようなものではないかと思います(それが人間の最良のものと表裏一体というのも興味深いですが)。
5. Posted by tajima 2020年10月16日 05:11
ひとり様
キルケゴールのやうな人は、罪といふ一点で神と関はらうとするため、私のやうに罪を軽く見る連中に我慢がならないでせう。せっかく、それを深化する果てに絶対者への実にか細い糸口を手にできるのに、それを捨て去るとはもってのほか、といふわけです。
しかし、我々有限なものを超越する偉大さには様々なものがあるといふこと(おそらくはそれら偉大なものも有限でせうが)、有限性の否定から唯一の神へと一直線で向かふ必要などないこと、驚くほど多くの神的なものどもが実在し、出現するといふことこそ重要です。キリスト教の伝統の中に、数々の偉大なもの、美しいものがあることは否定しませんが、それが全てではないのです。
キルケゴールのやうな人は、罪といふ一点で神と関はらうとするため、私のやうに罪を軽く見る連中に我慢がならないでせう。せっかく、それを深化する果てに絶対者への実にか細い糸口を手にできるのに、それを捨て去るとはもってのほか、といふわけです。
しかし、我々有限なものを超越する偉大さには様々なものがあるといふこと(おそらくはそれら偉大なものも有限でせうが)、有限性の否定から唯一の神へと一直線で向かふ必要などないこと、驚くほど多くの神的なものどもが実在し、出現するといふことこそ重要です。キリスト教の伝統の中に、数々の偉大なもの、美しいものがあることは否定しませんが、それが全てではないのです。