守強硬派のライシ師が選ばれました。アメリカとの対立は深まるのですか。


この問題の核心にあるのが、まさにイランの核問題です。では、核問題とはなんでしょうか。


イランが密かに行っていた核開発が暴露されたのは2002年でした。イランは平和利用だと主張しましたが、アメリカなど各国は軍事転用を疑いました。そしてイランに対して経済制裁を科しました。しかし、09年にアメリカでオバマ政権が誕生すると、イランとアメリカなどの間で交渉が始まり、15年にイランと諸大国が核合意に署名しました。諸大国とはアメリカ、イギリス、フランス、中国、ロシアの国連安全保障理の5常任理事国とドイツの6カ国です。合意のポイントは、一方でイランは核開発に大幅な制限を受け入れる、他方で各国は経済制裁を止める、でした。


ところが18年にトランプ大統領が合意から一方的に離脱しました。そして経済制裁を再開・強化しました。これによってイランは、石油の輸出がむずかしくなるなど経済的な苦境に追い込まれました。以来、イランとアメリカの関係は戦争に近づくほど悪化しました。さらにイランも合意で定められた範囲を逸脱したウランの濃縮を開始するなど、合意から距離を置き始めました。こうした中で誕生したのがバイデン政権です。20年の大統領選挙では合意への復帰を訴えていました。4月には合意を再生するための交渉がオーストリアの首都ウィーンで始まりました。交渉は妥結に近づきましたが、6月のイランの大統領選挙で強硬派のライシが当選しました。以来、交渉は停止状態となりました。というのは、イランが8月のライシ政権の発足まで交渉を停止させたからです。ライシ大統領の就任後に、イランはどうでるでしょうか。


ところで、ライシ自身の役割は、核問題に関しては、決定的ではありません。外交や安全保障に関する最終的な決断はアリ・ハメネイ最高指導者が行うからです。イランの政治制度では、この最高指導者が最終的な権力を握っています。現在イランでは経済制裁と新型コロナウイルスのまん延という二つの責め苦にあえいでいます。さらに停電と干ばつによる水不足が各地で暴動を引き起こしています。体制の生き残りのためには交渉への復帰と妥結を選ぶのが、最高指導者にとって合理的な選択です。なので、経済制裁の解除による経済の好転をライシ新政権への門出のプレゼントとするために、交渉を最高指導者が遅らせたと見られています。であるならば、ライシ政権の発足後の早い段階で核合意が再生されることとなるでしょう。そうなれば、他の分野でのイランとアメリカの対立関係が解消されるわけではありませんが、一番大きな問題が、とりあえずはなくなるわけです。アメリカ軍の中東からの撤退という流れがあるので、両国間の摩擦は残るものの、対立のこれまで以上の激化は予想されません。


懸念もあります。アメリカ軍のアフガニスタンからの撤退などを見て、イラン側がみずからの交渉力が強いと判断して合意の再生のための条件を引き上げてくる場合です。理解する必要があるのは、バイデン政権の国内的な基盤の弱さです。核合意に対しては、オバマ時代から共和党はもちろんのこと民主党にも反対論者がたくさんいました。バイデン政権は国内政策最優先を掲げており、新型コロナウイルス対策やインフラの再建、地球温暖化政策のために、いくつもの重要な法案を成立させねばなりません。イランに譲歩して民主党内の反発を買う余裕はありません。こうした微妙な状況を読み誤り、イランが余りに押し過ぎると交渉が挫折する可能性があります。となるとイラン・アメリカ関係は、大きな緊張をはらむこととなると思います。


そもそもライシ師はどんな人物なのですか。


ライシは1960年にイラン東北部の宗教都市マシャドに生まれています。マシャドは最高指導者のハメネイの出身地でもあります。家庭は代々の宗教指導者の家系です。それもサイエッドの血筋です。サイエッドとは、イスラム教の預言者ムハンマドの血筋を意味します。宗教指導者の場合には黒いターバンを巻きます。これは預言者ムハンマドが黒いターバンをしていたという伝承にもとづく習慣です。イランの革命体制の最初の指導者のホメイニも、現在の最高指導者のハメネイも黒のターバンを巻いています。


ライシは革命後に若くして出世し、司法面で「活躍」します。ハメネイと同郷で子弟関係にあったのが背景にあるのでしょうか。二人の政治的な軌跡が交差する場面が80年代にありました。それは1980~88年にわたってたたかわれたイラン・イラク戦争末期のことでした。その事件に筆を進める準備として、革命期に話を戻さねばなりません。


1979年に起きたイラン革命は、王制の打倒をめざすさまざまな勢力の共同事業でした。そして王制の崩壊後、各勢力の間で、血で血を洗う権力闘争がありました。勝利を収めたのは、ホメイニに従う宗教勢力でした。敗れた勢力のメンバーの多くが政治犯として拘束され、その多くがイラン・イラク戦争末期に処刑されます。ライシは、この処刑を決定した1人とされています。この大量処刑は、イラン革命史における一つの節目でした。というのは、それに反対したモンタゼリという人物が失脚したからです。それまで、このモンタゼリが指導者のホメイニの後継者と見なされていました。ところがこの処刑に反対の声を上げたモンタゼリはホメイニの怒りを買い失脚、代わりにホメイニの後継者となったのがハメネイでした。ある意味で、ライシらによる大量処刑がなければ、ハメネイは最高指導者になっていなかった可能性が高いのです。ハメネイ最高指導者とライシ新大統領の二人の政治的な軌跡が交差したというのは、そういう意味です。この事件に象徴されるように、ライシは忠実に保守強硬路線に従ってきました。ハメネイの信頼が厚い背景です。そして、それゆえに次の最高指導者にライシを、と体制中枢の保守派が見なしているのです。


対立する国々との関係はどうなるのでしょうか。


重要な外交政策は大統領ではなく最高指導者が決定するので周辺諸国への対応にも大きな変化は予想されていません。大半の諸国は、アメリカのアジア・シフト、つまり中東からの陸上兵力の撤兵と関与の縮小という大きな動きに対応しようとしています。2019年にサウジアラビアの油田地帯がドローン攻撃を受ける事件がありました。これがイランの仕業だとの大方の見方にもかかわらず、アメリカは同国と戦火を開きませんでした。これがサウジアラビアなどの諸国のアメリカに対する信頼を掘り崩しました。その対応として起こったのが第一に、イスラエルとの接近です。アメリカほどの重みはないにしろ、イランに対抗するためにはみずからの味方を増やす必要を感じたからでしょう。そして第二が、脅威の源泉であるイランとの対話の開始でした。すでにカタール、オマーン、クウェートなどが採用している政策です。サウジアラビアとアラブ首長国連邦は、イランとの対話を開始しています。利害の対立を認識しつつ、その摩擦の最小限にとどめようとする努力がつづくでしょう。


しかし、イスラエルとイランとの間の小競り合いは、今後ともつづくでしょう。あえて付言すれば、サウジアラビアなどがイランとの対話を選択した以上、同国に対するイスラエルとアラブ保守派の軍事面での協力にも限度があるでしょう。


これまで友好関係を維持してきた日本。どのような選択が迫られるのでしょうか。


合意が再生されてアメリカの経済制裁が解除されれば、日本にとってはイランとの経済関係を深めるチャンスです。イラン国内の人権状況などに目配りしつつも、経済の交流が同国の民生の向上につながるという点を強調したいものです。もし、制裁が解除されない場合にも、これまで以上の通りの人道面での支援の強化が望まれます。同国に対するワクチンの供与などは、評価できる政策です。


-了-

出版元の了解を得てアップします。

「イランに保守強硬派の新大統領/新たな火種になるのか」
『まなぶ』2021年9月号57~60ページ