後味の悪さを残したあるテロリストの死

 

西洋近代化に対する反発から生まれたイスラム回帰運動は、エジプトにおけるムスリム同胞団結成という形で現実に影響を与えた。この組織には穏健派と過激派がいるが、その影響を受けた人物の中にウサマ・ビンラーディンがいた。彼は後年アルカーエダを組織し、アメリカ同時多発テロを起こし、最後はアメリカの軍事作戦で殺害された。20115月のことである。このタイミングは民主化運動「アラブの春」が始まった後であった。

 

ビンラーディンが掲げたものは何だったか。欧米と結託するアラブの独裁政権を打ち倒す。対象はパキスタン、サウジアラビア、エジプトなどだ。さらに外国勢力をイスラム世界から一掃する。最大の対象はアメリカである。そして最後にシャリア(イスラム法)に基づく政治体制を打ち立てる。しかもイスラム世界全体を包含するような。これがビンラーディンの目標で、手段はテロであった。

 

ビンラーディンの追従者は、世界各地でテロを実行した。テロは多くの人々を殺傷し恐怖を巻き起こした。だが同時に怒りを引き起こした。アルカーエダのテロは、遠く離れてニュースとして聞くには、悪くない場合もあるかも知れない。宿敵アメリカに対するジハードであるから。しかし身近にテロの痛ましさを見せられると、人々は突然に幻想とロマンから目覚める。アラブ諸国での世論調査によれば、ビンラーディンの人気は、実際にテロを経験していない国で高い。だが一度テロを経験すると人気が下がる傾向にある。もっと重要な点はアルカーエダのテロで倒れた体制がないということだ。ビンラーディン一族の出身地のイエメンにしろ、ビンラーディンが育ったサウジアラビアにしろ、あるいはアルカーエダのナンバー2とされるザワヒリの出身国のエジプトにしろ、テロで倒れた政権はない。

 

アラブの春の旋風 銃より強かったもの

 

ところがテロの世紀に入った21世紀で、2011年に入って民主化運動「アラブの春」が巻き起こる。チュニジアとエジプトの大衆が示したのは、平和的な抗議行動によって独裁政権を倒すことが可能であるという事実だった。大衆は銃に代わりスマートフォンを武器とした。まずツイッターやフェイスブックで結びついた比較的少数がデモを行う。そのデモがアルジャジーラなどの衛星テレビで放送されれば、すぐに広範な大衆が参加する抗議行動に発展する。エジプトの場合には、多数派のイスラム教徒と少数派のキリスト教徒が同じデモの波に身を投じた。大衆のデモは、津波のように治安当局を押し流した。ここで軍が投入される。しかし、軍が発砲しなければ政権は倒れる。チュニジアやエジプトの例である。大規模デモという名の直接民主主義、まさにデモ・クラシーが機能した。

 

ピラミッドのようにそびえ立っていた強固な独裁体制があっけなく崩壊した。平和的な大衆行動がチュニジアとエジプトの独裁体制を倒した。デモにおいてビンラーディンの名を叫ぶ民衆はおらず、アルカーエダの支援を求める声もなかった。

 

歴史は点でなく線 心を開き注視を続けよ

 

こうした大衆運動で人々が求めたものは、ビンラーディンの掲げた夢ではなかった。つまりシャリアの統治する国ではなかった。人々は人間としての尊厳、言論の自由、民主主義を求めた。欧米の人々が享受しているのと同じ自由な民主主義を求めたのだ。

 

1153日付けの中東の英字新聞『ハリージ・タイムズ』のネット版は、ビンラーディン殺害の報道を受けたイエメンのデモ参加者の声を伝えた。イエメンではサーレハ大統領の長年の独裁に抗議している人々の間で、ビンラーディンの写真を掲げないようにとのメッセージが広がったという。一族の出身地イエメンでも、人々はビンラーディンから距離を置いたのだった。

 

アラブの春が始まり、ビンラーディンの掲げた目標と方法が大衆により無視され風化した。少なくともアラブ世界の先進地域と呼べるチュニジアとエジプトでは、そして遅れているはずのイエメンの都市部でも、もはやビンラーディンには何の役回りも残されていなかった。

 

その後、アラブの春はさらに各地に波及したが、震源地チュニジア以外では、一時的な民主化はするものの権威主義に戻り、民主化運動そのものが政府に弾圧され混乱に陥った国が多い。これをもってアラブの春は失敗だったとする報道もあるが、歴史は点でなく線である。アラブの春を経験した世代が次に起こす行動を注視したい。

 

-了-