だいずせんせいの持続性学入門

自立した持続可能な地域社会をつくるための対話の広場

信仰について(2)

2020-02-10 12:52:24 | Weblog

「戦後から高度成長期にかけてクルマが普及し、これに伴って交通事故も増えました。被害者に加害者、その縁者と、多くの苦しむ人や悲しむ人が、救いを求めて当寺院に訪れたそうです。彼らに寄りそうことは、私たち僧侶の務めです。不動明王様による救いの手をさしのべるため、交通安全祈願を始めたのだと推測します。」GAZOO、「神社とは違う? 高幡不動尊金剛寺に「クルマのお祓い」の意味を聞いた」2020.2.5付

 東京都日野市にある真言宗の寺院、高幡不動尊金剛寺は交通安全祈願で全国的に有名で、年間3万台の車のお祓いをするという。冒頭はその起源を聞かれた寺の幹部の返答だ。

 信仰の形は時代によって大きく変化する。それは時代とともに人々の苦しみと不幸の内容が変化していくからだ。私たちは日々のニュースで交通事故の死者が出たことを聞かない日はない。交通事故による突然の死はその本人のみならず遺族にとっても、さらには加害者とその家族にとっても現代における最も深刻な苦しみであり不幸である。特に被害者が幼い子どもであった時にはその苦しみは筆舌に尽くしがたい。それは加害者の刑事罰や「対人無制限」の自動車保険で解決するものではない。

 私も毎日のようにハンドルを握る。国道をかなりのスピードで走っていて「今、あの対向車が車線をはみだしてきて正面衝突したらどうなるか」というようなことを想像することがある。おそらく、日常の世界から、ほんの1、2秒でまったく違う世界に突き落とされるだろう。即死したとしたら、自分が死ぬということをまったく意識せずに死ぬことになるので、その魂はさまよってしまうのではないか、というようなことをなんとはなしに考えてしまう。絶対に自分が加害者にならないようにと気持ちを引き締める。

 しかし、どんなに注意深く運転していたとしても、日常のこととなれば、運転している間ずっと高い集中力を維持することは不可能だ。ふっと気がぬけた時に不注意による事故を起こさないという保証はない。またもらい事故であれば避けようがないことも多い。事故を起こすかどうか、事故に遭うかどうかは運にまかされている部分が確かにあると思う。

 人間がどんなに努力しても避けられない苦しみと不幸がある時に、私たちは神仏に加護を求める。それは古代からずっと続いてきた民衆の信仰の形である。その20・21世紀的な形の一つが交通安全祈願だと言えるだろう。

 

「当寺院で行う交通安全祈願は、ご本尊である不動明王様のお力をいただき、ハンドルを握るドライバーの悪心を祓い、迷うことなく運転してもらうことを目的としています」(前掲記事)

 

 そのお祓いをする僧侶に不動明王に取り継ぐ資格と力があるのかということが問題であるが、とにかく車のオーナーとすれば一種のサービス料金として布施をし、お祓いをしてもらえば安心する。その心は確かに信仰心と言ってよい。

 将来、自動車の事故防止機能や自動運転などの技術が発達し、交通事故が劇的に減少することになれば、このような信仰もなくなっていくだろう。そしてその時には、また新たに発生する人々の苦しみと不幸の形に応じて信仰は続いていくのだと思う。

 

 

 

 

 

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