代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

水戸学・国学とマルクス主義 ―自民党と共産党への提言

2020年08月30日 | 政治経済(日本)
 前回の記事で水戸学徒が行った水戸藩内の血の粛清、内ゲバとリンチ殺人、内乱などは、ソ連や中国あるいは日本の新左翼過激派の所業とそっくりであると述べた。水戸学とマルクス主義者は似ているのだ。

 私は今回出版した『日本を開国させた男、松平忠固』で、日本会議の右派史観と左派の講座派マルクス主義史観の類似性を指摘し、その双方の誤りを指摘した。
 いま、最近出版された保阪正康氏の『近現代史からの警告』(講談社現代新書)を読んでいる。保坂氏も「唯物史観と皇国史観の共通性」を論じている。保坂氏の論点は、皇国史観もマルクス主義史観も、事実から実証的に論じる帰納主義に立つのではなく、絶対的に正しいとされる論理ないし法則性が先にあって、そこから演繹的に歴史を説明しようとする点で、同じだと論じている。その指摘に全く同意するものである。
 皇国史観でもマルクス主義史観でも「絶対的に正しい」とされる物語の枠組みが固定されているので、それに反する歴史的事実関係は、すべて忘却される。これでは思想や学問の発展などあり得るわけがなかろう。
 
 日本の近世末期から近現代の歴史の中で、もっとも多くの若者を不毛なテロ活動に追いやってきた二大思想といえば、なんいっても水戸学・国学とマルクス主義であろう。一般的に前者は右翼テロ、後者は左翼テロと呼ばれるが、両者は同根である。いま話題の「三島由紀夫vs東大全共闘」、水戸学徒とマルクス主義者の論争だから、それは似た者同士でシンクロするのも当たり前だろう。

 絶対的に正しいと信じ込める「普遍的な理論」があると、それを認めず、その理論に反する行動をとるような人びとを、右派は「売国奴・国賊」、左派は「反革命・人民の敵」など呼び方は異なるものの、いずれも存在してはいけない人間と考えるようになり、極端にいくと「殺してもかまわない」と考えるようになってしまうのだ。理論の中身は違っても、思考のロジックは同じである。
 そのような普遍的な理論などないのだ。さまざまな思想を学び、それぞれの違いを楽しみ、同じ事象を説明するにも、理論によって、さまざまな説明があり得ることを知る事、そうした多様性のある柔軟な知性でなければ未来は切り開けない。
 
 自民党は水戸学・国学的な皇国史観に凝り固まった日本会議の影響から脱しなければならない。日本共産党はマルクス主義を放棄して党名を変更すべきなのである。社会主義はマルクスの専売特許ではない。マルクス本人に社会主義に対する具体的ビジョンなど何もないのだから、マルクス主義など信じていても、未来は何も描けない。
 日本共産党も最近の中国の弾圧政策に対して抗議するのであれば、恥ずかしくて同じ党名など名乗れないはずである。同じ名前の党があれほど酷いことをするので、誤解を招き、選挙でも戦えないので、党名を変更します。理由はこれで十分であろう。
 
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