phaの日記

パーティーは終わった

誰にも読まれなくても文章を書く



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もう20年くらい、ずっと文章を書いている。最初は趣味で、ウェブ上の日記に思ったことを書いたりしていただけで、読むのは知り合いくらいだったのだけど、いつの間にか顔も知らない人に読まれることが増えて、書くことでお金をもらうようにもなった。
だけど、文章を誰かに褒められたり、文章でお金をもらえたりするとうれしいのはうれしいけれど、それはあくまで二次的なものだという意識がある。
僕が文章を書くのは自分のためだ。自分が何かを考えたいから書くし、自分が何かに納得したいから書く。書かないといつまでも同じところを堂々巡りしてしまうけれど、書くと思考や人生が前に進むような気がする。
生物というものが食べ物を摂取して排泄するように、自分にとって何かを読んで何かを書くことは、生きることと一体化しているような感じがある。
いや、もっと大きい理由は、書くことに圧倒的な快楽があるからだ。どんな快楽よりも文章を書くことが一番楽しいと思っている。世界を自分なりのやり方で工夫して言語に落とし込むこと。そのやり方を考える過程や、納得のいくかたちで書きあがったときの達成感が、一番好きだ。
それに比べれば、褒められることなんかはどうでもいい。書き上がるまでの過程が一番好きなので、書き上がったあとはその文章に興味をなくしてしまう。

最近、春日武彦『鬱屈精神科医、占いにすがる』という本を読んだ。
これは精神科医の春日先生が、六十を過ぎたくらいの年齢でどうしようもなく塞ぎ込んで鬱屈としてしまい、それを解消しようと精神科医的にはタブーでもありそうな占い師に助けを求めたり、精神科医と占い師の類似点や違いを考察したりしながら、ひたすら自分の内面を鬱々と掘り下げたりするという本で、私小説のようなエッセイのような変な本なのだけど、とても面白かった。
春日先生のような聡明な人でも、六十を過ぎてもまだ母親との関係をひきずってしまうのだとか、鬱々と自分の精神の歪みと向き合い続けなければいけないのだ、とか、そういう点が興味深かった。大して事件が起こるわけでもなく、ひたすら鬱々と自分のことを書いてるだけなのになんで面白いんだろう。僕もこういうのを書きたい。
この本でもっとも共感した部分は、人生で何を一番大事だと思っているか、という話だ。

(P192)
つまり人生の中から類似と相似を見つけ出し、この混沌とした世界に自分なりの方法で独自の視点や秩序を見て取りたいのである。
そうなのだ。身も蓋もない表現をするなら、わたしにとっての生きる意味とは、自分の周囲から類似と相似とを見つけ出す営みに他ならない。
(中略)
そして他人の役に立ちたいとか、世の中をより良いものにしたいなどといった道徳的発想がまるでないところに、当方の「人間としての問題」があるのかもしれない。

鬱屈精神科医、占いにすがる

鬱屈精神科医、占いにすがる

僕もそんな感じで文章を書いていると思う。「あれはこういう風に説明できるんじゃないか」とふと思いついて、それを言葉にする、という瞬間が一番楽しい。それを読んでくれる人がいればこしたことがないが、賞賛を求めて書くわけじゃない。自分の気持ちよさのためだけに書いている。「面白いですね」と褒められても、「まあそれはそうでしょ、それは僕が面白いんじゃなくて世界が面白いんだから、当たり前」と思っていたりする。
それは、他人による評価を基準にして行動する人には、あまり理解できない行動なのかもしれない。そんなことやって何が面白いんだ、もっと人の役に立つことをやれ、と言われるかもしれないけれど、自分にとってはそれくらいしか面白いと感じるものがないのだ。

コンプレックスをテーマにして書かれた最果タヒさんのエッセイ集、『コンプレックス・プリズム』で書かれていた「賢さ」の話にも共感した。

(P100)
賢さは常に自分を心地よく楽しませるものでしかないと、賢い人は知っているのではないか、賢さそのものが魅力として映るとき、その人はその人のためにしかそこにいない気がする。結果としてたとえ世界を大きく変えることになったとしても、その人の閃きを最前線で感じ取って、その鮮やかさに心底痺れているのはその人自身であるはずだ。

コンプレックス・プリズム

コンプレックス・プリズム

  • 作者:最果 タヒ
  • 発売日: 2020/03/15
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

ここでいう「賢さ」とか「閃き」はドラッグみたいなものだ。本人はただ気持ちいいからやってるだけで、だけどドラッグと違うのは、その閃きに痺れている様子が、他人にも感銘を与えるということだ(あと、たまに世の中の役に立ったりすることがあるかもしれない)。
僕が文章を書くのも同じような感じで、そんなに人の役に立つためにやろうと思っていないし、お金を稼ごうと思ってやっているのでもない。なんか結果的に人に読まれたりお金をもらえたりするようになっているけれど、今でもそのことは変な感じがする。自分は自分のために文章を書いているだけなのに、なぜそれが仕事になっているんだろう。僕の文章をビジネスに落とし込んでくれる編集者の人がすごいのかもしれない。
この先どうなるかわからないけれど、お金がもらえてももらえなくても、自分は生きているかぎり文章を書いていくと思う。


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