ウェルビーイング経営雑感

 昨日、某財閥系シンクタンクセミナーで慶大教授の前野隆司氏の講演を聴講してまいりました。前野先生といえば申し上げるまでもなくウェルビーイング経営ということで、私はウェルビーイング経営についてはもやもやした理解しかなかったので大変に勉強になりました。いろいろと明るい展望の持てるいいご講演だったと思います。
 前野先生のウェルビーイング経営については例えば以下をご覧いただきたいのですが、
https://project.nikkeibp.co.jp/decom/atcl/102700007/102100015/
 ここでも中心的に紹介される「幸せの4つの因子」つまり「やってみよう」因子(自己実現と成長)、「ありがとう」因子(つながりと感謝)、「なんとかなる」因子(前向きと楽観)、「ありのまま」因子(独立とマイペース)というのが世間では有名で前野先生だけでなく令夫人も著書などで紹介されているわけですが、確かに私としてもこれらが大切なことは直観的にもよくわかりますが、一方でではどうすればとかそれだけなのかとかいろいろともやもやしていたわけですね。そのあたりがだいぶはっきりしたわけです。
 まず納得したのがこの4つの因子は「心的要因」であって、この他に「環境要因」と「身体要因」があるというのですね。で、この3つの要因は「非地位財」型の幸せの構成要因であり、これとは別に「地位的」型の幸せというのがあるという図式のご説明があったわけです。
 私の理解がどれほど正確かはわかりませんが「地位財」型の幸せというのはカネとかモノとか社会的地位とかの他人と比較できる幸せで、これらは獲得するとその時は幸せだが長続きせず、やがてそれ以上のカネ、モノ、地位が得られなければ幸せではなくなる。それに対して「非地位財」型の幸せというのは長続きすることが実証されているらしく、具体的には環境、身体、心的要因だというわけです。なるほどなるほど、乱暴に言ってしまえばカネとか地位とか関係ねえんだよと、そういうのとは別次元の話をしているんだよと、まあそういうことなのでしょう。昇進も昇給もなしで創造性が3倍、生産性が3割向上できるというのは経営者にはまことに耳よりな話であり、人事担当者にとってもまずは福音と申せましょう。
 そこで非地位材型の3要因ですが、環境要因と身体要因のそれぞれの典型は安全と健康だ、とのことで、これは非常にわかりやすい話です。なるほど、カネの多寡や地位の高低とは別次元のものとして安定した雇用と収入の確保は要因に含まれているわけだ。なるほど、たしかにこれは長続きする幸福をもたらすよねえと納得したわけです。健康もたしかにそのとおりですね。
 そう考えると心的要因の4つの因子もわかるような気がするわけで、「やってみよう」因子は「自己実現と成長」だというのですが、これば別にポジションや待遇が向上しなければいけないというわけではなく、改善提案や権限移譲などで自己実現感、成長感が得られればいいということなのでしょう。それならポストやポジションが制約されている中でも可能かもしれません。経営理念の共有も強調されていましたがこれも同じですね。「ありがとう」因子というのは「つながりと感謝」、要するにコミュニケーションということのようで、あいさつや感謝を伝える行動に加えて社員旅行や運動会の効用をしきりに説かれていたのが印象的でした。
 「なんとかなる」因子は「前向きと楽観」ということで即座にクランボルツの「5つのスキル」を想起させ、キャリア管理論で使えないかなどと思いましたがちょっと無理かな(笑)。チャレンジ精神旺盛な人はそうでない人に較べて幸福だというのはよくわかりますがこれは属人的要素が大きく経営にできることは限られてくるかな。まあそれを促す制度や失敗を責めない風土というところでしょうか。「ありのまま」因子は「独立とマイペース」ということで、押し付けや命令はダメだということを繰り返し強調しておられました。
 さて私としてはこのようにいろいろなことが腑に落ちたわけですが残る疑問というのもあり、うち2点を講演後の質疑で質問してみました。
 1点めは心的要因の4つの要素についてで、組織経営的な要素が影響する部分と、個人の資質的な要素が影響する部分があるだろうと思われるところ、どれについてどちらのウェイトが高いとお考えか、という点です。上記のようにチャレンジ精神とか経営や人事管理でやれることは限られているよねえということを想定しているわけですが、実は質問ではそれと指定することなく「実は体育会人材というのが案外いい」という回答を引き出すことを期待していたのでありました(笑)。当然ながらそうはならなかったのですが。
 もう一つはいつもの話で、ご講演ではあいさつ、経営理念共有、改善活動を通じたコミュニケーション活性化(朝礼1時間!)という取り組みで成功している中小企業の事例が繰り返し強調されていたのですが、中小企業の事例ではやはり生存者バイアスがありますよねという件です。

 大きな声でみんなであいさつ、朝礼1時間という会社だとコミュ障で苦労している人とかは入って来ないだろうし、入ってきても居心地が悪くなって辞めていってしまうだろう、大企業はそういう人にも居場所があるので「中小企業にできてなぜ大企業にできない」という議論にはなりませんよねという話を「コミュ障」という言葉を避けながら質問したのでわかりにくい質疑になったかなと反省しているのですが、これについてはそういう人も包摂するコミュニケーションが大事ですねというご回答をいただきました。
 ということで、今回私の最大の気づきは実は同質性というのはけっこう大事だということで、日経連ダイバーシティ・ワーク・ルール研究会以降ダイバーシティを叫び続けてきた私としてはやや拍子抜けというか肩の力が抜けたというか(笑)。ご講演を聞き進めるにつれ、この4つの因子ってやはり同質性の高い組織のほうがより実現しやすいだろうなと思わざるを得なかったわけです。上下関係とか指揮命令系統とかいったものもなるべく薄めるとか、(今回のご講演ではこの話は出ませんでしたが)賃金は年功的でほとんど差をつけないとか。なんかキャリア自律とは正反対の話ばかりだな(笑)。いやまあもちろん多様性の高い中でそれを実現するのがインクルージョンというものだという正論は譲らないにしても、同質性のもたらす恵みというものもきちんと評価する必要はあるだろうなと。
 あともう一つ感想を書いておきますと、もっぱら「地位材」型の幸せをインセンティブにして動機付けしてきた従来の経営や人事管理は間違いだったのか?というとそうでもないだろうということで(ご講演でも長続きしないと指摘されただけでそれが間違いだとは言われませんでした)、やはりカネや地位の向上に新たな幸せを求め続ける人材というのは能力も生産性も高いのではないかと思うわけです。ただまあ新たな幸せというのはカネが大きくなるほど・地位が高くなるほど(この2つはかなり近い)入手困難であってそれをめぐる競争も激化するわけで、誰もが手に入れられるわけではないし、往々にして「非地位材」的な幸せの要因とトレードオフであったりする(長時間労働で健康を害したりとかだな)。その構造をよく理解して、まあ「地位材」で勝てそうになければそちらは諦めて「非地位材」の幸せの確保を経営も人事管理も働く人も考えましょうよと、そういう議論もできるのかなと思いました。経営上もそれが生産性に資するというのはかなり有益な指摘ではないかと思います。