今年も1月27日の国際ホロコースト記念日が過ぎた。第2次世界大戦末期の1945年1月27日にポーランドのアウシュヴィッツ=ビルケナウの強制収容所がソ連軍に解放されたのを記念して2005年に国連総会が、この日を国際ホロコースト記念日に指定した。ホロコーストとは、ナチスによるユダヤ人大虐殺を意味している。


ユダヤ人が多いので冗談交じりにジ3ューヨークと語られことのあるニューヨークに留学した筆者は、多くのユダヤ系の人々に出会った。ジューとは英語で「ユダヤの」という意味である。その中にはポーランドから移民してきたユダヤ人もいた。そうした人々によれば、ポーランド人はナチスのユダヤ人迫害に加担した人々であった。ポーランドを占領したナチスと占領されたポーランド人の間で意見が合ったのは、ユダヤ人に対する嫌悪であった。


ここでいうポーランド人とは、ユダヤ系の人々を除いている。つまりカトリック教徒である。ナチスはポーランド人の協力を得てポーランドのユダヤ人を絶滅しようとした。これがアメリカのユダヤ人のポーランドに関する歴史認識である。


映画『インディジョーンズ』シリーズなどで知られるスティーブン・スピルバーグ監督が、1993年に『シンドラーのリスト』という映画を公開した。ユダヤ人を救ったオスカー・シンドラーというドイツの実業家の物語である。映画の中で、貨車で収容所に送られるユダヤ人に対して、ポーランドの少年が首を切るようなジェスチャーをする場面がある。お前ら殺されるのだとあざ笑うシーンである。ポーランド人がナチスの共犯者だとの認識を象徴するジェスチャーである。ちなみにスピルバーグ自身もユダヤ系である。


2010年6月にアウシュヴィッツの収容所跡を広島の被爆者のグループと訪問する機会があった。現地で驚いてしまった。というのは、そこではポーランド人がナチスの犠牲者であるとの歴史が語られていたからである。


ナチス占領下のヨーロッパでは、アウシュヴィッツのような収容所が多数つくられていた。その死のネットワークの中で1200万人が殺害された。その半数はユダヤ系の人々であった。そして残りは非ユダヤ系の人々であった。捕虜、性的マイノリティー、障害者、ロマ人(ジプシー)、対ナチス抵抗運動で逮捕された人々など、さまざまであった。ポーランド人はというと、ナチスに協力してユダヤ人狩りの先頭に立った者もいれば、危険を冒してユダヤ人を匿った者もいる。こうしてみると、アウシュヴィッツは、ユダヤ系の人々の悲劇だけの場面ではなく、人類すべてにとっての悲劇の現場であった。


当たり前のことながら、ニューヨークで触れた歴史認識とは違うストーリーであった。アウシュヴィッツの記憶はだれのものなのか。ユダヤ系の人々だけのものなのか、それともポーランドの人々も共有すべきなのか。重い問いにぶつかった。頭をガツンと壁にぶつけたような感覚だった。


ポーランド人はアウシュヴィッツの加害者であり共犯者である。だが、同時に被害者でもあった。日本人が1930年代から40年代にかけての戦争の加害者であると同時に被害者であったのと同じような構図だろうか。


この過去の記憶の解釈をめぐる論争は現在もつづいている。2018年、ポーランドでは、ポーランド人およびポーランド国家がナチスの犯罪に加担したと主張することを違法化した。ポーランド人が、ナチス加担と非難されるのをいかに嫌っているのかがわかる。しかし、法律をつくったからといって過去は変えられない。


被害者のユダヤ人も、この虐殺をイスラエル国家の正当化のために使ってきた。ユダヤ人が脅威にさらされた場合の避難のために、イスラエルが必要だと主張してきた。しかし、イスラエルは成立の過程で多くのパレスチナ人を追放した。そして現在も多くのパレスチナ人を占領下においている。ここでも被害者が加害者と融合している。歴史の重層性と記憶の多面性という大きな問題をアウシュヴィッツは突きつけてくる。




アウシュヴィッツ収容所へとつながる線路
 (2010年10月 筆者撮影)

-了-


※『まなぶ』(2021年3月号)40∼41ページに掲載