「自分らしく生きたい」という願いがSNSを生み出した

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2021年11月18日公開の「フェイスブックのようなSNSによる 「アテンション・エコノミー」に対抗する方法とは?」です(一部改変)。

metamorworks/Shutterstock

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「寝そべっているのはいいことだ、寝そべっているのは素晴らしい、寝そべるのは正しい、寝そべっていれば倒れることもない」

2021年6月、中国でジャン・シンミンという36歳の男性がソファに寝転び、ギターを爪弾きながら歌う動画が大評判になったあと、当局により削除された 。

それに先立つ同年4月、大手ポータルサイトの掲示板に「食事は1日2回でいいし、働くのは1年に1~2カ月でいい」「“寝そべり”はまさに賢者の運動。“寝そべり”だけが万物の尺度だ」とする「“寝そべり”は正義だ」という文章がアップされ、SNSを通じて急速に広がった。彼らは“躺平族(寝そべり族)”と呼ばれる。

世界的に、若者は何もしなくなっているのか。そんな興味で手に取ったのがジェニー・オデルの『何もしない』(ハヤカワ文庫NF)だ。著者は現代美術のアーティストで、「バードウォッチング、スクリーンショットの収集、おかしな電子商取引の解析など「観察」をともなう作品」を発表しているという(スタンフォード大学の講師でもある)。

オデルは白人の父とフィリピンからの移民の母のあいだに生まれ、両親は2人ともアップルに勤めている。そのため、アップル本社のあるシリコンバレーのクパチーノ(全米でもっとも平均所得が高く、もっとも地価の高い地域)で生まれ育った(現在はサンフランシスコ郊外のオークランド在住)。

この本は、オバマ元大統領が年間ベストブックの1冊に挙げたことで話題になった。オデルは「寝そべって」過ごすことを勧めているわけではない。結論からいうと、2016年のトランプ大統領誕生に際し、(めぐまれた)若いリベラルがどのようなことを考えたかの記録として興味深かった。

原題は“How To Do Nothing: Resisting the Attention Economy(何もしない方法 アテンション・エコノミーに抵抗する)”。アテンション・エコノミー(注意経済)は、消費者にモノを買わせるのではなく、ひとびとの「注意」を奪いあってマネタイズする資本主義のことだ。

SNSから「取り残される恐怖」

ドナルド・トランプがアメリカ大統領になるという衝撃的な出来事のあと、オデルは自宅ちかくにある「ローズガーデン」という公園に行き、そこで何もせずに鳥のさえずりに耳を傾けた。

選挙期間中、オデルを翻弄していたのは、ピザゲート、ドキシング、スワッティングなどの異常な出来事だった。

ピザゲートは、「ヒラリー陣営の関係者が、ワシントンD.C.にあるピザ店を拠点に人身売買や幼児虐待を行なっている」という陰謀論で、それがSNSで広まったことで、疑惑を信じた男がライフルをもってピザ店に押し入り発砲する事件が起きた。

ドキシング(doxing)は他人の個人情報をネット上にさらす行為で、「アンティファ(反ファシズム)」と呼ばれる“極左”が、SNS上の白人至上主義者やオルタナ右翼の身元を暴いて、勤めている会社や店に解雇を要求する運動を行なった。

スワッティング(Swatting)は、大事件が起こっているという虚偽の情報で警察やSWAT(警察特殊部隊)を出動させる悪質ないたずらで、過去には多くの芸能人が被害にあった 2017年には、オンラインゲームのトラブルで男性がスワッティングされ、派遣された警察官に自宅で射殺される事件が起きている。

静かな公園で“バード・リスニング”をしながら、「あの、現実とは思えない、恐ろしい情報と仮想性(バーチャリティ)の奔流」について考えたオデルは、いま必要とされているのは「拒絶」だと思いいたる。

わたしたちはSNSによって、#FOMO(fear of missing out;取り残されることへの恐怖)に追い立てられている。フェイスブックやインスタグラムのようなプラットフォーマーは、「私たちが自然に抱く他人への興味や、年齢に関係なくコミュニティを求める気持ち」につけ込み、「人間のもっとも根源的な欲求を乗っ取って欲求不満にさせ、そこから利益を得ている」。そのようなアテンション・エコノミーに対抗するには、「ドロップアウト」するしかないのだ。

だがこれは、よくある「デジタルデトックス」ではないのか。

スタートアップ企業の重役として週70時間働いていた23歳のレヴィ・フェニックスは、2008年、ストレスが原因の症状で入院を余儀なくされたことをきっかけにガールフレンド(のちの妻)とともにカンボジアを訪れ、マインドフルネス(瞑想)を体験した。アメリカに戻った2人は、カリフォルニアで大人向けのデジタルデトックス・サマーキャンプ〈キャンプ・グラウンデッド〉を起ち上げた。そこでは「デジタルテクノロジー禁止」「人脈づくりをしない」などのルールのもと、参加者たちは入念に準備された50あまりのアナログな活動に従事する。

ここからわかるように、デジタルデトックスの参加者が求めているのは「ドロップアウト」ではなく、日頃のストレスからつかの間解放され、より「生産性」を高めてストレスフルな日常に戻っていくことだ。

自然との共生や貨幣経済の拒絶(物々交換の「ギフト・エコノミー」)を掲げて始まった〈バーニングマン〉は、年々大規模になり、いまや「リバタリアニズムを信奉するテクノロジー業界のエリート連中を引き寄せるイベント」になっている。その象徴が、2015年にマーク・ザッカーバーグがヘリコプターで〈バーニングマン〉会場に降り立ち、グリルチーズサンドウィッチをふるまった出来事だとされる。

理想の生き方を実践する「特権階級」が社会を変える

アテンション・エコノミーへの「拒絶」として「何もしない」を提唱するオデルだが、社会からのドロップアウト(隠遁生活)を勧めるわけではない。「あらゆることに永久に決別したくなる衝動は、自分が暮らす世界にたいする個人の責任をないがしろにしているだけではない。そもそも、そんなことはとうてい実現不可能」だと述べる。

「逃げ切り不可能」と題された章では、1960年代から70年代にかけてアメリカ各地で行なわれたコミューン運動を調べ、それが例外なく失敗していることを確認してもいる(この部分の記述は興味深い)。「コミューンの物語が伝える教訓は、世界の政治的な構造からはどうあがいても逃れられないということ」なのだ。

だとすればいま必要なのは、「注意を別の場所に向けて、拡大増幅させ、その鋭さに磨きをかける能力を身につけための継続的なトレーニング」だ。「注意を奪還する革命的な潜在性」を実現するには、「何もしない」どころか、さまざまな活動をしなくてはならない。オデルが書こうとしたのは「自己啓発書を装った、活動家(アクティビスト)のための本」なのだ。

そのための具体的な方策として、「即自的なコミュニケーション」を抑制するための階層化されたSNS、グローバリズムから距離を置くための地域住民に特化したSNS、フェイスブックのようなプラットフォーマーの支配を拒絶する脱中央集権化されたSNSなどが紹介されている。ちなみにオデルが期待するフリーソフトのSNS「マストドン」は、トランプ前大統領が起ち上げる予定の新SNSが採用した(コード無断利用で警告を受けた)ことで話題になった。

「アテンション・エコノミーに対する市民の反抗」というテーマは、現在、アメリカを揺るがしているメタ(旧フェイスブック)への批判とも重なるが、よりよい社会を目指す活動(アクテヴィズム)が公園で鳥のさえずりに耳を傾けることなのか、と疑問に思うひともいるだろう。

これについてはオデルも自覚していて、こう述べている。

もちろん、これまで述べてきたことには間違いなく批判される点がひとつある。それは、そのすべてが特権的立場ゆえに可能になるということだ。私がローズガーデンに出かけ、そこでバラを眺め、丘の上に腰を下ろすことができるのも、教職についていて大学には週に二日出勤すればいいという前提があるからで、そのほかの特権についてはいわずもがなだ。(略)「何もしない」の実践だなんて、どうせ気ままな贅沢だと受け取られるおそれは充分ある。それはメンタルヘルス休暇をとるようなもので、そんな休暇を与えてくれる職場で働く幸運に浴していなければどだい無理な話ではないかと。

誰もが感じるだろうこの批判についてのオデルの答は、「(何も言わずにすませる権利が)多くの人に認められていないからといって、それが権利ではないだとか、重要ではないということにはならないはずだ」というものだ。「孤独、観察、シンプルな自立共生(コンヴィヴィアリティ)は、それじたいが目的や結果なのではなく、幸運にもこの世に生を享けた者ならだれもが持つ不可侵の権利だと認識されなければならない」のだという。なぜなら、その権利を行使する過程で「私たちは世界を刷新するだけでなく、新しい自分に生まれ変わる」のだから。

まずはありうべき理想を設定し、自分が先行してその理想の生き方を実践する(権利を行使する)ことが、オデルのような若くめぐまれたリベラルにとっては、自分を「啓発」し社会を変えていくことになるようだ。

「テクノロジー催眠」と「畜群ネットワーク」

オランダの哲学者ノーレン・ガーツは『ニヒリズムとテクノロジー』(翔泳社)で、オデルとは別の視点から現代のSNSを批判している。ガーツが依拠するのはニーチェの哲学(ハイデガーの道具論についても論じられるが本論とはほとんど関係しない)で、人間のニヒリズム(人生に背を向けたがる傾向)がテクノロジーを生み出し、そのテクノロジーがニヒリスティックな世界を生み出したと論じる。

「テクノロジー催眠」は自己催眠を行なう手段をテクノロジーに求めることで、ひとびとはユーチューブやTikTokを使って「自分を眠らせようとしている」。あるいは、やるべきことを先延ばしして、「ぼんやり」しようとしている。

「Netflix and chill(「ネットフリックスを見て家でくつろごう」Chillは性的な誘いのニュアンスがある)」はネットのミームになったが、1人でテレビを見ながら自己催眠する「カウチポテト」を、彼氏/彼女と自己催眠する「ソーシャルなアクティビティ」に変えた。

「データドリブン・テクノロジー」は、自分たちの日々の暮らしをテクノロジーに統制・制御してもらおうとする傾向で、AI(人工知能)がビッグデータを機械学習して生み出したアルゴリズムが、なにを観て(ネットフリックスのおすすめ)、なにをして(フィットビットの運動管理)、どこに行く(ポケモンGO)かを決めている。

これは「目的もなく、主役もなく、説明責任もない活動」で、「自由であることを運命づけられている」重圧から解放してくれる。

「娯楽経済テクノロジー」は、自分の能力を拡張・強化し、人助けや他人をサポートするのにテクノロジーを使うことだ。これは「金銭的な寄付だけでなく、見知らぬ人を自分の家で過ごさせてあげたり、自分の車を運転させてあげたり、誰かの雑用をこなしてあげたりする」ことで、その目的は「困っている人を助ける優越感を味わう」ことだ。

シェアリング・エコノミーでは、見知らぬひとが出会って信頼を築いていくのではなく、WEBにアップロードされた個人情報(データ)が信頼のもとになっている。マッチングアプリでは、登録者を右にスワイプするか(あり)、左にスワイプするか(なし)が「娯楽」になっている。「娯楽経済のウェブサイトやアプリが奨励しているのは、シェアでも施しでもなく、判定と差別。その目的はコミュニティの構築よりも、優越感の享受になっている」のだ。

「畜群ネットワーキング」は人間同士が直接群れるのではなく、テクノロジー的に群れて集団を形成する現象のことで、SNSとりわけ「フェイスブックという宗教」が論じられる。

現代世界(とりわけアメリカ)では、フェイスブックでアイデンティティを手に入れなければ、アイデンティティをもつことがどんどん不可能になってきている。それに加えてフェイスブックは、ユーザーに対して他人のプライバシーを侵害すること(のぞき見)をそそのかしている。

その結果わたしたちは、テクノロジーがつくりだした群れに身をゆだねることになった。そんな畜群ネットワークの僧侶(ザッカーバーグ)の目的は、群れを刺激してネットワーク用のコンテンツを生成させつづけることで、ユーザー生成コンテンツと広告主が制作したコンテンツを融合させることで巨額の利益をあげている。

「能動的ニヒリズム」は可能なのか

テクノロジーによるニヒリズムがもたらしたのが「クリックの狂乱」で、テクノロジーを通して自分の感情の狂乱を表現することだ。その典型として、ネットのコメント欄やフラッシュモブ(SNSで参加者を募りイベントを行なう)が論じられる。

SNSのパラドクスのひとつは、「自分がネットリンチの犠牲者になって人生を壊される可能性があるとわかっているのに、それでもソーシャルメディアを使い続ける」ことだ。その理由は、SNSの目的がもはや社交(ソーシャル)ではなく、「残忍さを発揮して他人に恥をかかせ、他人をバカにすることが主な目的」になっているからだとされる。

いまやテクノロジーは、わたしたちを空想の世界に誘導し(テクノロジー催眠)、命令し(データドリブンな活動)、ちからを与え(娯楽経済)、ひとびとをまとめる(畜群ネットワーキング)ことで世界をかたちづくっている。

あるいは今日、わたしたちはグーグル検索に答えを求め、グーグルマップに道案内を求め、グーグルのAIに自分の苦しみの除去を求める。これはまさにニーチェが予見した「ニヒリズム」そのものだとガーツはいう。

自分で生き方を決め、自分で目的を見つけて、自分なりの人生を意義のあるものにしようとせず、誰かに何をすべきでどう生きるべきかの指示を仰ぎ、人生の目的を教えてもらい、人生は意義あるものだと言ってもらわなければいけないところに問題があるのだ。

こうしたニヒリズムの行きつく果てがトランスヒューマニズムで、「肉体性や脆さ、必ず死ぬ運命」を拒絶し、有限の肉体に無限の意識が閉じ込められていると考え、「不完全なもの、自然な姿としての(これまでの)人間」を超えることを目指す。トランスヒューマニストにとって、苦しいのは「あるがままの自分」であることであり、その「あるがままの自分」は、「人間的な自由を追求することではなく、テクノロジー的に自由を追求することで克服できる」のだ。

だがガーツは、これはニーチェのいう「超人」でなく、超人が克服しようとしたニヒリズムそのものだという。ラディカルに自己を変革するのではなく、テクノロジーによって自己を再設計しようとするトランスヒューマニストは、たんに「神」を「テクノロジー」に置き換えたにすぎないのだ。

だったらどうやってこの隘路を突破するのか。ここでガーツが提示するのが、「受動的ニヒリズム」から「能動的ニヒリズム」への転換だ。

受動的ニヒリズムは、「人類の進歩をテクノロジーの進歩と同一視し、人類の進歩の目標としてテクノロジーに依存したポストヒューマンになることを追い求めることにつながっていく」とされる。それに対して能動的ニヒリズムには、「進歩に対するこのテクノヒューマンな見方の根底にある、禁欲の価値をあらためて考え直せる可能性がある」。これは、「破壊のための破壊」から「創造のための破壊」への移行であり、ガーツは「神は死んだ グーグルも死んだ」と宣言する。

ニヒリズムとは、人生の意味を私たちの外部にある、何か超越的な源に求めるということだ。自分ではないもの、自分の人生の外にあるものに生きる意味を求めることで、結果的に自分の人生を生きていないということである。

このようにいうガーツは、能動的ニヒリズムのムーヴメントを「何を「無意味」と思うかではなく、何に「意味を見出すか」を考えること」だとする。「人生とは、適応しながら乗り越えていき、成長していかなければならない課題であるはず」なのだ――という話になる。

私は「リベラル」を「自分らしく生きたい」という価値観のことだと定義している。ニーチェに依拠したガーツのテクノロジー批判は興味深いものの、その結論は(『何もしない』のジェニー・オデルと同様に)けっきょくリベラリズム(成長と自己変革)に回収されてしまうのではないか。

「自分らしく生きたい」という願い(欲望)がSNSなどのテクノロジーを生み出し、わたしたちはそのテクノロジーに拘束されているのだから、そこから抜け出すのは容易ではない。

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