「危ない御近所さん」たち


問題はウラン濃縮技術の二面性です。天然ウランは、そのままでは役に立ちません。これを濃縮すると、ある段階で原子力発電の燃料になるなど、平和利用が可能になります。さらに濃縮を進めると核爆弾の材料になります。基本的には、平和利用も軍事利用も同じ技術です。イランの濃縮技術の進歩に国際社会が懸念を抱く背景です。


イランが軍事利用しないとくり返しているにもかかわらず、国際社会はなぜ信用していないのでしょうか。それは、イランのウラン濃縮が平和利用に必要なレベルを超えているからです。そして、イランが置かれた国際状況を踏まえると、核兵器の保有を求めてもおかしくないと見ているからです。


イランを中心とした中東の地図を思い浮かべてください。イランの北にはカスピ海を挟んで核兵器大国のロシアがあります。何度もイランと戦争した国です。そしてペルシア帝国時代のイランから広大な領土を奪った国でもあります。第2次世界大戦中には、ソ連軍がイランの北半分を占領下に置いた時期もありました。


時計まわりに東を見ると、隣国のパキスタンは核兵器保有国です。その隣のインドもそうです。南のインド洋には米海軍が展開しています。核兵器を搭載した米海軍の潜水艦などの艦艇も航行しています。西の隣国のイラクは、かつてサダム・フセイン大統領の独裁下で核兵器の開発をしていました。1980年にはイランに対する侵略戦争を始めました。8年に及ぶ戦争でイラク側は化学兵器を使うなどの国際法違反をくり返しました。そしてイラクのさらに西には、ヨルダンをはさんでイスラエルがあります。この国も核兵器を保有しています。そしてイランと対立しています。


こうして見るとイランは決して平和で安定した国際環境に恵まれているわけではありません。どちらかというと、「危ない御近所さんたち」に囲まれているのです。となればイランも核兵器を保有したいと思ってもおかしくない、というのが国際社会の見立てです。


イラン・イラク戦争と湾岸戦争


イランが核開発を加速したのは、1990年代でした。なぜ、この時期なのでしょうか。それは二つの戦争と関連します。先に触れたイラン・イラク戦争と湾岸戦争です。前者はイラクの奇襲で始まりました。イラクはイラン領の一部を占領しますが、激しい抵抗にあい、戦局は膠着します。やがてイランが反撃し、奪われた領土を奪回します。そして今度はフセイン政権を打倒するためにイラクへの侵攻を試みます。しかし、多くの犠牲を払いながらも、主要各国の支援を受けたイラクの防衛ラインを突破できませんでした。そして88年に停戦となります。


このイランの経験と、その後の湾岸戦争の展開を比べてみましょう。


この戦争の直接の背景は1990年8月のイラクのクウェート侵攻でした。国際社会は撤退を求めましたが、イラクは応じませんでした。そして91年1月にアメリカ軍を主体とする多国籍軍がクウェート解放の戦争を始めました。これが湾岸戦争です。イラク軍に対する大規模な空爆が行われ、その後に陸上部隊が侵攻して2月にはクウェートが解放されます。総兵力100万人を超えたイラク軍は、アメリカのハイテク兵器の前に、なすすべもなく敗北しました。イランが多くの血を流しても突破できなかったイラクの防衛ラインをアメリカ軍は軽々と飛び越えて見せました。


このありさまを見たイランの指導層が、やはり核兵器をもたねばアメリカの攻撃を抑止できない、と考えるようになっても不思議ではありません。とりあえずその準備として、大規模な核開発が始められたのでしょう。しかも密かに。核兵器を保有するとの最終的な決断があったのかは、不明です。また、仮に過去にそうした計画が存在したとしても、何年も前からイランは、そうした試みを放棄しています。これはアメリカの諜報機関も確認しています。ただウランの濃縮度が高まり、その量が増えれば、結果としてイランは核兵器の保有に近づきます。短期間で核兵器を保有できる状況、「核兵器の敷居国家」に限りなく近づきます。それによって、ある種の疑似核抑止能力をイランは獲得しつつあるのです。


イランの核兵器保有は許さないと明言しているアメリカやイスラエルが、この敷居の低くなるのを、どこまで許容するのでしょうか。許容できないと判断した時に、どう対応するのかが注目されます。


>>次回につづく