世界大恐慌の教訓は「失業しない」こと コロナ後を見据えて、「攻め」の準備を

エルネオスが休刊になりました。朝日新聞の田部さんに市村編集長を紹介されたのはいつの事だったでしょうか。長年にわたり書く場を与えて頂きました。またしても、若手のジャーナリストが腕を磨く場所がなくなってしまいました。残念でなりません。連載最後の記事です。(雑誌エルネオス 9月号「磯山友幸の生きてる経済解読 第103回)

 

 人口減少、消費増税による消費減退、そして新型コロナウイルスの蔓延──。日本経済はそんな三重苦に直面して、猛烈な経済縮小のとば口に立っている。前号でも指摘した通り、定額給付金や持続化給付金の支給など二百三十兆円超の経済対策によって、不思議な「危機感の欠如」が生じている。家計は消費を劇的に減らす一方で、勤労世帯の実収入は増えているのだから、危機にもかかわらず、余裕を生じている人が少なからず生まれている。だが、それも「嵐の前の静けさ」だろう。
 内閣府が八月十七日に発表した二〇二〇年四─六月期の実質国内総生産(GDP)速報値は、一─三月期に比べて七・八%減、年率換算では二七・八%減と未曾有の落ち込みになった。リーマンショック直後の〇九年一─三月期は年率一七・八%の減だったので、それをはるかに上回る減少だ。報道では「戦後最悪」と表現しているものの、比較可能な正確な統計があるわけではなく、「経験したことのない落ち込み」であるという意味しかない。
 もっとも、年率換算の数字を並べてみてもあまり意味はない。四─六月の経済状況が一年間続いた場合の仮定の数字にすぎないからだ。緊急事態宣言による自粛要請などで経済が凍りついた四─六月期は、おそらく「どん底」で、経済活動が部分的にせよ始まった七─九月期は、四─六月期に比べれば「大幅な成長」になるだろう。だが、それも一種の数字のマジックで、「底に比べれば浮上した」だけ、決して好況が戻ってくるわけではない。

政府の認識の甘さに批判

 問題は二〇二〇年一年を通じたGDP成長率がどれくらいのマイナスになるか、だ。一九年の日本のGDP成長率は実質でプラス〇・七%、その前年の一八年はプラス〇・三%、一七年はプラス二・二%、一六年はプラス〇・五%だ。東日本大震災があった一一年はマイナス成長だったが、その率は〇・一%。過去十五年で最低だったのはリーマンショックがあった翌年の〇九年で、成長率はマイナス五・四%だった。二〇二〇年はそれを上回る落ち込みになることが確実視されている。
 リーマンショックの際は、派遣労働者などの「雇い止め」が大きな社会問題となり、NPO労働組合が東京・日比谷公園に「年越し派遣村」を設置した。失業が増えただけでなく、大学新卒者の採用も厳しさを増した。
 GDPの実額で見ると、リーマンショック前のピークだった二〇〇七年は五百三十一兆円で、これを上回ったのは二〇一六年。復活に九年の年月を要した。この間、デフレが進んだので、これを勘案した「実質GDP」のベースでも元に戻るのに六年を要した。
 二〇二〇年の落ち込みはどのくらいになるのか。政府が八月三日の経済財政諮問会議で示した二〇二〇年度の経済見通しはマイナス四・五%。年ではなく年度なので三カ月後ろにずれているとはいうものの、さっそく「認識が甘いのでは」といった批判が出ている。
 企業業績の悪化で、賞与の削減や人員圧縮などが秋以降本格化すれば、消費に一気にブレーキがかかることが予想される。二〇二〇年の暦年で見れば、一〇%近いマイナス成長もありうる。しかも、新型コロナウイルスの蔓延は終息の兆しが見られず、経済がV字回復する可能性は日に日に薄れている。
 一九二九年から始まった世界大恐慌は、経済への影響が拡大するのに数年かかった。米国の失業率で見ると、どん底の二五%に達したのは、株価が大暴落してから四年後の一九三三年。金融崩壊から始まった経済危機が、実体経済に及び、人々の生活を直撃していくまでに四年を要したのだ。
 当時の世界は「金本位制」が主流で、金の準備高に応じた量しか紙幣を発行できなかった。通貨が増やせないため、経済の縮小、つまりデフレが起きた時に、量的緩和などの金融政策が打てなかった。結果、通貨価値が異常に上昇、物価は下落。農産物価格は四分の一になり、一九三三年の名目GDPは一九一九年に比べて四五%も減少したといわれる。

変化に耐えられる企業、個人へ

 この世界大恐慌の再来を抑えるために、世界の中央銀行は一斉の量的緩和に踏み切っているわけだ。中央銀行がお札を刷って貸し付けを増やし、政府は赤字予算を組んで助成金をばら撒く。これによって猛烈な経済収縮を防ぎ、デフレになるのを抑えようとしているわけだが、成功するかどうかは分からない。
 その「副作用」も懸念される。大量に資金供給することで通貨価値が下落、インフレとなって物価上昇をもたらすというのだ。だが、そうした副作用を承知で、デフレを押さえ込もうとしているのである。
 コロナ禍がどういう形で収まるのか見通せないが、どこかで、新型コロナウイルスへの懸念が消えた瞬間、世界は猛烈なインフレになる、という見方もある。国によってはその国の通貨への信用が失われ、通貨危機に直面することになりかねない、というのだ。
 覚悟しておかなければいけないのは、経済活動が止まっている間は猛烈なデフレ圧力が世界にかかるだろうということだ。これは世界大恐慌で起きたことと似ている。特に、銀行が破綻するなど資金供給機能が制約されれば、デフレは一気に加速する。
 世界大恐慌の教訓は「失業しないこと」。デフレ経済の中で、定期的な収入さえ得られれば、生活は困窮するどころか、むしろ豊かにさえなる。大恐慌下の米国でも失業しなかった世帯は豊かさをかみしめることができた。
 政府は、失業させないために、企業に雇用を守らせようと必死になるだろう。だが問題は、ポスト・コロナ禍の社会の中で、その会社のモノやサービスが引き続き求められるかどうかだ。となればポスト・コロナ禍社会に合わせたモノやサービスへのビジネスモデルを変化させていくことが不可欠になる。
 個人も同じだ。収入を得続けるためには、ただ組織にぶら下がっているだけでは済まない。新しい働き方や、スキルを身に付けなければ、仕事を失うことになりかねないのだ。
 それで成長路線に戻れれば良いが、企業の構造転換が遅れれば、今度は猛烈なインフレ圧力に苛まれることになるかもしれない。仮に新型コロナウイルス感染症が数年で終息しても、それに伴う経済活動の変革が終わり、経済が元に戻るには、もしかすると十年の歳月が必要になる。それに耐えられる企業、個人であることが求められる。


 この連載も百十三回をもって終了となります。長年お読みいただきありがとうございました。心より感謝申し上げます。 磯山友幸