『まなぶ』の2019年12月号に掲載していただいた拙文です。
少し時間は立ちましたが、レバノンの政治の構造は変わっていませんので、
御参考までに。

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宗教の博物館

今年10月下旬から、中東・レバノンで抗議デモがつづいています。そのきっかけは、政府による携帯アプリへの課税の発表でした。税の増収をねらっての政策でした。これが、国民に十分なサービスを提供していない政府と政治に対する不満に火を着け、充満したガスが爆発したような状況となりました。その特徴は、単なる反政府デモではない点です。政府ばかりではなく、野党に対しても抗議の矛先が向けられました。つまり、政治システムそのものに対して批判があるわけです。

それでは、その政治システムというのはどのようなものでしょうか。政治は、その統治する社会を反映しがちです。この国の政治もそうです。レバノンには多くのキリスト教やイスラム教の宗派が存在しています。数え方によっては10いくつもの宗派があります。生きた宗教博物館という表現があるほどです。キリスト教をみても、マロン派と呼ばれる宗派やカトリック教会、アルメニア教会など、バラエティがあります。イスラム教の方も多様で、良く知られたスンニー派とシーア派以外にドルーズという宗派もあります。なかなか簡単ではありません。なぜ、これほどまでに多くの宗派がレバノンで生きつづけてきたのでしょうか。それは、レバノンが山岳地形だからです。少数派が迫害を避けて立てこもるには絶好の地形です。

レバノンは、他の多くの中東の地域と同じように、長らくオスマン帝国の支配下にありました。そして第1次世界大戦後には、英仏の中東分割の結果としてシリアとともにフランスの支配下に入りました。現在のシリアとレバノンは歴史的に一体感の強い地域でしたが、フランスの植民地帝国の解体過程でシリアとレバノンとして分離独立を達成しました。

レバノンが分離した背景にはキリスト教徒たちの希望がありました。イスラム教徒が多数派の国では、シリアの一部となってしまうと少数派となります。一方、レバノンだけで独立すれば、キリスト教徒が多数派となることができます。それこそがキリスト教徒たちのレバノンの分離独立の願望の背景でした。

独立後には人口統計にもとづいて、宗派ごとに権力が分配されました。首相はキリスト教徒、議会の議長はイスラム教徒などのように、です。そして議会では、議席がキリスト教徒に過半数が与えられました。こうして、キリスト教徒優位の体制が構築されました。

名望家支配

また、各宗派では伝統的な政治家の一族が権力を独占しました。こうした有力なファミリーを歴史家は「名望家」と呼び、限られた数の名望家出身の指導者をアラビア語で「ゾアマー」と呼びます。レバノンでは、宗派別に区切られた空間でゾアマーたちが権力を維持・継承してきました。つまり、レバノンは宗派別ゾアマー支配の集合体だったのです。

人口が同じ割合で増加すれば、このシステムでもなんとか維持できたかもしれません。しかし、じっさいは、そうではありませんでした。人口統計は政治的な問題を引き起こしかねないので長らく取られていませんが、政府による正式な調査がなくとも、実態はすすんでゆきます。あきらかに貧しいイスラム教徒の、中でもシーア派イスラム教徒の比率が増えて行きました。貧しい方が多産であるという「ゆりかごの復讐」と社会学者の呼ぶ現象がレバノンでも起こったわけです。庶民は、「貧乏人の子だくさん」というわかりやすい言葉を使いますが。

そして1970年代には、イスラム教徒がじっさいに多数派となっていました。自己に有利な体制を守ろうとするキリスト教徒と、より多くの権力を求めるイスラム教徒がにらみ合います。そこにヨルダンから多数のパレスチナ人が流入します。これは、ヨルダンにおいてヤセル・アラファトの率いるPLO(パレスチナ解放機構)とヨルダン王制の戦争があり、PLOが敗れた結果でした。パレスチナ人の多数派はイスラム教徒です。いよいよシステムは維持できなくなります。レバノンは長い内戦の季節に突入したのです。南からイスラエルが侵攻します。しかもイスラエルの侵攻に反発してイランも、レバノン南部のシーア派への支援を強化します。情勢は混乱をきわめました。

そして1990年に隣国のシリアが介入して、この内戦を力で終結させました。新たな政治的な均衡点が探られ、それまでよりもイスラム教徒に配慮したシステムが構築されました。だが、ゾアマーの支配構造には手が付けられませんでした。相変わらず内戦前と同じような名望家支配がつづいたのです。

イランへの打撃

その中での一番大きな変化は、シーア派の権力の拡大でした。レバノン南部を居住空間とするシーア派のイスラム教徒は、権力からも富からも、もっとも遠いところにいました。ところが1979年にイランにシーア派の革命政権が成立すると、イランが南部レバノンのシーア派の組織化を後押しします。具体的には、ヘズボッラー(神の党)という組織を育成します。ヘズボッラーはイラン革命防衛隊によって訓練と装備を与えられて強力な軍事組織に成長しました。そして1980年代からレバノン南部を支配していたイスラエル軍を叩きだしました。また、ヘズボッラーは政治活動にも熱心で、議会に議席を獲得して有力政党としての顔を見せています。そして、なによりも重要なのはその「どぶ板」活動です。貧しいシーア派住民への民生面での支援で支持を広げ、固めました。ある意味ではレバノン最大の人道支援機関でもあるのです。

レバノン内戦の終結においてシリアが大きな役割を果たしました。また、南部のシーア派の組織化にイランが貢献しました。じつはイランとシリアは同盟関係にあり、レバノンのヘズボッラーが両国の同盟者でもあるのです。それゆえ2011年からつづいているシリア内戦では、ヘズボッラーが兵員を派遣してシリアのアサド政権を支えています。このシリアとヘズボッラーとの同盟関係を通じてイランはレバノンに影響力を浸透させ、対立するイスラエルを牽制してきました。

ところが今回の抗議運動で、レバノンの政治体制そのものが揺らいでいます。これはイランの影響力に対する大きな打撃となるでしょう。同時にイランの隣国のイラクにおいても民衆の抗議運動が起こっています。基本的には、与党も野党も含めて、支配層の腐敗と非能率な統治に対する抗議です。イラクにおいてもレバノンと同じように与野党共にイランの影響力を受けており、イラクの騒動もイランの影響力への打撃となるでしょう。

新たな体制への課題

レバノンの宗派・名望家支配体制の中で、個人は、各宗派の権力者に働きかけることで公共サービスを受け取る仕組みになっていますが、支配階級が名望家出身者に固定されれば、そこには縁故主義がまかり通り、腐敗の温床となりやすい。レバノンが、まさに、その例です。こうしたシステムそのものに対して、民衆が宗派を超えた連帯で抗議活動を展開しているのです。レバノンの政治での新しい風景です。現在の宗派別の名望家支配体制の終焉を求めているのです。だが問題は、それに代わる新たな政治体制を提案し構築できるのかどうかです。抗議している側に突き付けられている課題です。

-了-