プーチン本その1:朝日新聞『プーチンの実像』:ゴシップに終始して最後はプーチンの走狗と化す危険な本

Executive Summary

 朝日新聞プーチンの実像』(朝日新聞社、2015/2019) は、日本のぶら下がり取材的にプーチンが日本や自分たちと行った会見やその周辺人物のインタビューをあれこれ行っているが、明確な視点がないために、それが単なるゴシップのパパラッチに堕している。そのゴシップの価値にゲタをはかせようと、歪曲による祭りあげまで行ううえ、プーチンの軍事的な意図についてまったく触れず、このためプーチンは外国に対し、主権を持っているかとかいう抽象的な視点で判断を下しているという、ナンセンスな主張を行う。そしてそれは最終的に、日本はアメリカのイヌで主権がない、北方領土を返してほしければ日米安保を廃止して主権を回復せよ、という信じられない主張を暗に匂わせる、得たいの知れないプーチンの走狗本と化している。


 ぼくも人並み以上にミーハーなので、ウクライナ侵攻が始まってから、いろいろプーチン関連本を漁ってみてはいる。

 そんなものを読む理由は、基本的にはなんでプーチンがこんな暴挙に出たのか、というのを知りたいわけだ。最初のうち、ドンバスなどに傀儡政府をつくって独立宣言させて、「助けてーといわれたので助けにきましたよー」といって乗り込んで、既成事実化するという、クリミアでも使った手口をやろうとしているのかな、という感じはした。それも、そういう形式が整う前に軍を国境に動かしたりして、かなり強引で急いでいた感じはあったけれど、まあわかる。でも、その後いきなりストレートな侵攻を始めたのは何? プーチン、頭おかしくなったの? それまでの周到さはどこへ? それとも何か遠謀深慮 (深謀遠慮、が正しいのかな? どっちでもいいや) があるのか?

 そして、それと同時に、プーチンその人についても知りたいよね。ずっと、この侵攻はとにかくプーチン個人の判断であり、プーチンの胸先三寸次第というのをさんざん聞かされてきた。だったら、彼のこれまでの考え方や行動、力関係、そうしたものの中に今回のヒントがあると思うのは人情。

 で、いろいろ読んではみた。まあ当然ながら、かなりのピンキリ。それらについて、Cakesの連載で触れようかと思ったけれど数が多いし、特にキリのヤツは罵倒だらけになってしまう。でも、せっかく読んだのに何もコメントしないのももったいないし、言えなかった不満がどす黒く内心に溜まるのもいやだから、こっちで扱おう。

 全体に日本の本はキリが多い。そのほとんどは、プーチンの「平和条約を結ぼう!」「ぼくは柔道マンだ! 北方領土もヒキワケ精神だ!」発言に完全に頭が冒されてしまい、それ以外のことが考えられなくなっている。ヒキワケというのは四島のうち二島返還のことだよね! と勝手に解釈し、それ以上一歩も頭が進まなくなっている。

 政府がそうなってしまうのはわかる。政府としては北方領土問題の解決は悲願だから。そしてそれがあり得ないと思っても、他に解釈がないかのようにしつこく言い続けて相手をなんとか土俵に乗せる、というのは政府の動きとしてはあり得る。だけれど、分析する人々、報道する人々はそれではいけないと思うんだが……でもそうなっている。そういう人たちを政府が委員会とかで重用してその人たちが幅をきかせるせいなのか、それともプーチンの手口がうまくてみんな他のところに目がいかなくなるからなのか (でもそれは同じことではある)。

 扱うのは、比較的伝記的な記述、プーチンその人の話を中心としたもの。ロシア情勢の分析となると、多すぎて手がまわりませんわ。


朝日新聞国際報道部『プーチンの実像』(文庫版2019):ゴシップに終始して最後はプーチンの走狗と化す危険な本。

 で、最初がこれ。順番に特に意味はないんだけれど、かなり実際の取材とインタビューを中心にしているようだし、ジャーナリストで何か特定のアジェンダがあるわけではなく、中立的に書かれているだろうと思ったので、まずこれを手に取ってみました。

 が……

 いやあ、アジェンダがないどころではなかった。いろいろ読んだなかで、これほど露骨かつ悪質にアジェンダを持って情報操作する本はなかったのでは、というくらいのすごい本だった。しかもそれが結構巧妙に隠されている。ぼくですら、二回目に読むまでは気がつかなかったほど。本当にこれを、ジャーナリズムと言っていいんですか?

歪曲によりプーチン凄いヤツとイメージ操作

 まず、この本はプーチンすごい、というのを手を尽くして言いたがる。その筆頭にくるのが、KGB職員としてドレスデンに配備されていたときの、ベルリンの壁崩壊のときに起きたエピソードだ。

 なんでも、東独政権が崩壊したので、その秘密警察を襲った群衆の一部 (20-30人) が、「KGBもやっちまえ」とプーチンたちの建物に押し寄せてきた、という話。ところがプーチンは彼らとたった一人で対峙し、それを追い払ったという。その様子を、この本はそのときにその建物の中にいたKGB職員にインタビューして、見てきたような迫真の記述を行う。そしてそのまとめとして、朝日新聞は、一応はインタビューを受けた目撃者の証言としてだけれど、こう書く。

 武装していない将校が言葉を発しただけで群集は去った。権力で人を意のままに動かすことができる人間だということだ。(p.40)

 が。

 まず、この本の中の証言者ですら、プーチンの横には自動小銃を持った護衛がいて、途中で装弾までしている。「武装していない将校」なんかじゃないでしょう。

 そして、何やら気迫で群集を撃退した、という話がどうして「権力で人を意のままに動かすことができる人間だということだ」なんていう話になるの? まったく意味不明。何かオーラを持っていたというのと、権力があるというのとは全然話がちがうでしょうに。

 でもこの本は、そういう印象操作を平気でやる。プーチンが、なにやらすごいオーラを備えたとんでもないやつだ、というのを演出するほうが、ネタの価値があがるという計算をしているわけだ。そしてそのオーラこそが、後の権力掌握につながったのだ、という印象をこじつけたいわけだ。

(2022.05.03付記:ふと思いついたんだけれど、これってたぶんインタビュー受けた人 (ドイツの政府系研究所エンジニア) は、「authority」にあたる表現を使ったんじゃないのかな? 「権力で」ではなく、威厳でとか権威を持ってとか威圧感でとか高圧的にとか、そういう意味合いで言っていたのではないかと思う。でもそれなら、こういうニュアンスをまったく変える「翻訳」はしないでほしいもんだ)

 そしてこの本が出る2015年のはるか前に、オレグ・ブロツキーによる、公式に近い評伝が2002年にロシアで出ていて、その中でのインタビューでプーチン自身がこれについて詳しく語っている。

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 それによると、プーチンはこの建物の一階から大量に自動小銃を群集に向けて構えさせていて、いつでも発砲できるようにしていた (これはぼくも孫引き。ごめん、ロシア語そんな読めない)。さらに、おまえは妙にドイツ語がうまいが何者だと群集に問われて「いやおいらはただの通訳です」とごまかしたとのこと。これは『プーチン、自らを語る』でも自分で言っていることだ (p.103)。丸腰で、何やら魔闘気により群集をひるませた、というのとは話がぜんぜんちがう。朝日新聞のエリート記者は、こういう資料をきちんと読まなかったんだろうか?

プーチンの対外対応の分析ができない:無能なの、それともわざと?

 そしてそれ以前に、これを書いた朝日新聞国際報道部には、そもそもまともな分析能力がないのかもしれないとすら思える部分さえ見られる。たとえばこの本は、プーチンの国際的な動きについてまとめるにあたり、彼が公式にいろいろ不満の声をあげたり介入したりした世界的な動きを羅列してみせる。それは、NATO拡大/コソボ問題/米国のミサイル強化/旧ソ連諸国のカラー革命/カダフィ政権崩壊/シリア問題、という具合 (pp. 289-94)。

 オッケー。それはいい視点かもしれない。で、そうした発言を元に何が言えるだろうか? この一覧を見て、ロシアの影響力の捉え方、同盟関係のあり方、いろいろ見方はあると思うんだ。ところが朝日新聞がこれらから抽出した知見とは?

 これらの経緯を見て一貫して言えることは、プーチンはとにかく体制の転覆を忌み嫌うということだ」。(p.294)

 は?

 体制の転覆を忌み嫌う? プーチンがクリミアを併合し、ドンバスで政権転覆工作をさんざん行った後の2015年の本で?

 それは一見しておかしいと気がつくべきじゃない? 自分に都合のいい体制の転覆は絶賛/黙認、そうでないものには文句、という当たり前のことをしているだけだというのは、一瞬でわかるべきだと思うんだけど。だからそこで見るべきはプーチンがその選り分けをどうやっているか、という話のはずでしょう。

 ところがこの本を書いた朝日新聞の記者たちが、まっ先に言うのがこれだ。要するに、国際的なつながりとか力関係、軍事バランスといったものについての知見が一切ないんじゃないか? 一見するとそう思われても仕方ないと思う。(が、これは無能を装いつつ、実はプーチンの軍事的な意図に一切触れないための高度なボケ技だった可能性が高い。本稿の最後あたりをみてほしい)

日本関連ではゴシップばかり

 では、それなしにこの本は何を書いているんだろうか? 基本的に、ゴシップとパパラッチ。

 冒頭はプーチンが2018年に「条件つけずに平和条約結ぼうぜ」と言った話 (単行本は2015年刊だから、ここは文庫版での加筆)。それで、安部首相がどう出て、それに対してだれそれがこんな勘ぐりをして、だれそれがそれに入れ知恵して、とその会議や前後の様子を延々と書く。でも、それって何か臨場感を出しているように見えて、実はまったく情報量はないのだ。そして結局、プーチンは即座に対応できてエライ、安部首相と取り巻きはすぐに対応できずにプーチン様をわかっていないダメなやつ、というのが結論だ。

 その後も、森喜朗や柔道の山下との話を見てきたようにあれこれ書いたり、現地での細かいインタビューの細部をあれこれ書くんだけれど、それによって何かあまり知られていない事実が出てくるということはまったくない。いろいろ世間的に言われている話の裏が取れました、というのは、まあ価値がないわけでもないかもしれない。また途中で、プーチンの公式発表で山下との会談の日付がずれたり、写真が操作されたりしているのを見て、いろいろそこから延々と推理をして勘ぐる部分があるけれど、それも無価値ではない。が、それにより何かすごいことがわかるというわけでもない。

記者会見で符牒を使ってもらえただけで舞い上がる

 そして15章では、プーチンが国際記者会見のときに、柔道用語をたくさん使って、日本の記者だけがその「ヒキワケ」とか「ハジメ」とかいう意味がわかった、というのがたいへんに嬉しかったらしく、そのときの様子をこと細かに書いてみせる。それが嬉しかったのはわかる。自分たちが特別扱いしてもらった気分になったんでしょう? でも、プーチンが人たらしで云々、というのはこの本にもさんざん書いているじゃありませんか。自分がそれにあっさりのせられてどうするんですか。

 でもこの記者会見の結果、日本ではありとあらゆる関係者が「プーチンは柔道マンでヒキワケ精神だから二島返還」という、いまや一顧だにする価値のない愚論がまつりあげられることになる。そしてそれが日本の外交を左右し、ロシアにさんざん貢がされるはめになり……

 その後、いろいろ進展がないことについても、G7で圧力かけようとしたりアメリカと仲良くしたりするのがよくない、もっとプーチンに忖度して寄り添うべき、向こうは仲良くしたいと思っているのに日本がダメなのだ、プーチン様の御心を日本側が理解しないのがよくないのだ、とひたすらいいつのるのがこの本となる。

プーチンの軍事的意図に一切言及せずに日米安保と米軍撤退まで示唆する倒錯

 で、最終的にこの本は、基本的なところで非常にいやらしい倒錯をする。この本が最終的にどこに議論を落とすかというと、次の通り。


  • 日本はアメリカの属国であって主権国家の体をなしていない
  • アメリカとの関係を切って主権を確立できないと北方領土は返ってこない
  • 主権が確立できたかどうかは、プーチン様がご判断あそばされる


 これが明確に出ているのは、プロローグに書かれ、文庫版の帯にも使われている次の一節だ。

 今後、プーチン北方領土問題で日本にわずかにでも譲るとすれば、日本が米国から「主権」を取り戻したとプーチンが考えたときなのかもしれない。
 国家の「主権」や「自立」についての独特の理解と、強いこだわり。NATO日米安保条約といった軍事同盟への加盟を「主権の放棄」として嫌悪する姿勢。これらはいずれも、政治家プーチンを支える太い根っこになっている。(pp.35-36)

 何を言ってるんですか? プーチンNATO日米安保を嫌うのは、「主権の放棄」とかいう抽象的な理由ではなく、ロシアにとって軍事的に不利だから、というだけなのは、火を見るより明らかでしょうに。プーチンがなんで他国の主権のありかたなんかいちいち心配してると思うんですか? クリミアを侵略したのは、ウクライナやクリミアの人々の主権や自立に配慮してたとでもいうんですか? 軍事同盟結ぶことについて、あれこれケチをつけることこそ主権と自立への口だしでしょうに。でも、朝日新聞国際報道部は、そういうことは思いつかないらしい。全体に、プーチンがそういう軍事的野心を持っていること自体、なるべく触れようとしない。その結果が「主権」「自立」とかいう抽象概念をプーチンが気にしているという、まったくもって変な見方だ。

 そしてこれは実質的には、日本政府は日米安保やめて基地を追い出せ、そうしないと北方領土帰ってこないかもよ、と言っているに等しい。書いた記者のうち二人は、ぼくと同年齢で、安保闘争には若すぎるはずだけれど、朝日新聞の中にはそういう思想のケツミャクがいまだに残っているんだろうか。安保はんたーい、米帝の軍事支配を打破せよ、アジアの人民と連帯して真の独立主権を〜。そして、それがちゃんとできたか判断してくれるのは、プーチン……

 いや、それはおかしいでしょう。2015年にもおかしかったし、文庫版が出た2019年にもおかしかったし、いまはなおさらおかしいのがはっきりしてきたと思う。

まとめ:プーチンの軍事的意図を隠して反米をうちだす危険な本

 結局本書は、ゴシップに終始し、プーチンを変にまつりあげようとし、その軍事的な野心や計算についてはなるべくプレイダウンしようとし、「ヒキワケ」だのという妄言で日本を狂わせ、ひたすらプーチンへの忖度を訴え、そして最後に日米安保反対と孤立を主張しその審判をプーチンに委ねるべきだとまで述べている。ぼくは、かなり悪質な本だと評価せざるを得ない。最初に読んだときはぬるいだけかと思ったし、いろいろインタビューしてあるので、がんばっているなー、とさえ思った。「政権の転覆を嫌う」なんて、単なるボケだとばかり思っていた。でもそこから引き出されるこの壮絶な主張は、どうしましょうか。

 それをわかった上で読むと、いろいろ味わい深いところはある。が、これだけ読んで何かわかったような気になっては絶対にいけない、とても危険な本だと思う。