盛り上げたわりに、無機質…不評に終わった

 1967年10月31日に実施された吉田氏の国葬も、今回と同じで政府が閣議決定で決定した。日本には国葬を定める法律がないので国会で議決されることもなく、野党の反対を押し切って政府が実施を決めて、どのような形で執り行うか考えた。

 もちろん、戦後復興を進めた吉田氏の功績は多くの国民が認めるところであって、抗議デモもあったが、ほとんどの国民は吉田氏の国葬をすんなりと受け入れた。そのあたりは今のムードとまったく変わらない。

 テレビの大騒ぎも今と同じだ。国葬当日は「宰相吉田茂」(NHK)、「人間吉田茂」(フジテレビ)など朝から晩まで全チャンネルで追悼番組を放送。神奈川県大磯の自宅から武道館へと遺骨が運ばれるまでは、民放全局共同で中継をした。

 ワイドショーのコメンテーターも「国葬は当然だ。国葬になれないドブネズミどもがガヤガヤ言っているのだ」(読売新聞1967年11月2日)と言って、戦後初の「国葬」を大いに盛り上げた。

 しかしそんな世間の盛り上がりと対照的に、会場の武道館はかなりビミョーな空気が流れていた、と読売新聞(1967年11月3日)が報じている。

 「弔辞はことごとく型通りのものだった。喜楽を分けたはずの親しい人の弔辞も制限された。参列者も、各省ごとに、機械的に割り当てられ、人選された」(同上)

 そんな単調さに拍車をかけたのが、場内で延々と繰り返された、自衛隊音楽隊による「永遠に眠れ」「悲しみの譜」。そして、一般献花者が祭壇を前に吉田氏への思いをかみ締めていると容赦なくかけられる「直ちに退場してください」という場内アナウンスだった。こんな儀礼的なムードが5時間続いた「戦後初の国葬」を同紙は以下のように総括している。

 「“国葬”というより、無感動な“官葬”という気がしてならなかった」(同上)

 なぜこんなことになってしまったのか。当時の政府の人間がことごとく「無能」ぞろいだったから…などではなく、これが戦後日本における国葬の限界なのだ。