だいずせんせいの持続性学入門

自立した持続可能な地域社会をつくるための対話の広場

山村に活気がみなぎっていた時代の物語

2024-05-01 15:17:54 | Weblog

「わたしは少数の仲間で昭和二九年から山村の生活実態調査にしたがっている。・・・それらの中には、林野面積が八○パーセント以上の村が七○以上にのぼっている。いずれも僻村といってよいところである。そして過去においてははなはだしい窮迫の見られたところである。

 しかしそれらの村々がすこしずつ前進している。その前進させているものは何かというと、大体においてスギの造林をおこなっていることと、林道の開設である。・・・

静岡県磐田郡水窪町などはその好例である。・・・戦後はじめてトラック林道改修にとりかかった。・・・さてこの一本の林道ができたことによって、どのような変化がおこったか。まず第一に国鉄バスの乗入れが見られた。すると林業労務者たちは、いままで山中に小屋を建て、そこに寝泊りして作業していたのが、自分の家からバスで作業地へ通勤するようになった。・・・つぎに川狩(菅流し)がなくなった。これで労力は著しくういて来るとともに、リューマチや神経痛の患者がへりはじめた。一方仕事にあぶれたもの、林業収入のへった者が数十人もあった。この人たちにとって生活は一時かなり苦しいものになって来たが、植林事業がすすみはじめたし、他方では材木の搬出作業が多くなって、その方へ労力が吸収せられていった。

・・・スギの価格は一石当一、二○○円以下であったのが、二、○○○円以上にはね上がった上に、搬出費はもとの四分の一ですむようになった。林業の収入が多くなってくると労賃も上がって来、男ならば一日七○○円、女はその半分以上になった。旧賃金のおよそ二倍である。

また山林をもっている者は、随時木を伐って出すことができるようになり、山林一五町歩持っているもので、一年間八○万円くらい伐って過伐にはならないという。そこでその収入をもとにして、乳牛を入れるものや木製工場をたてる者も出て来た。

もっと大きいかわりようは、子供を高校へ通わせる家がふえて来、一般に教育への関心が著しくつよくなって来た。そして中学校の統合問題もおこって来た。この町には小中学校合して七つの分教場があった。小さい学校に学ぶ子供たちは、多くの不便をしのびつつろくな勉強もできなかったが、バスの開通を見て、バスを利用すれば本校へ通える見透しがたって来た。今まで夢にも考えられなかった大きい学校へ通学できるということが、山中の子にどれほど大きな希望を与えたことか。」 宮本常一「僻地性解消のために」宮本常一著作集2p.145。初出は「離島僻地新生活運動の根本問題」、1961年

 

昭和29年、1954年といえば、田舎の人口が最も多い時代、これから高度経済成長の扉が開こうというところだ。その当時の山村の活気が描かれている。私はこの水窪(みさくぼ)地区(現在は浜松市)に今から15年ほど前に調査に入ったことがある。国土交通省による「限界集落」調査のお手伝いだ。その時には宮本が見た活気は失われてすでに久しく、人口減少・高齢化がすすみ、町全体が限界集落に近づきつつあった。

宮本が林業の活況を見てから程なく、日本政府は木材の輸入を自由化。大量の外国産材が入ってきた。それでも1980年代までは山林は資産としての価値があったが、その後の価格の下落は、林業を斜陽にさせ、そのことは山村の過疎化を極端なまでに進行させた。その萌芽が宮本の観察にあることが興味深い。林業で生活が楽になると、親たちは子どもを高校に行かせるようになった。その子たちの多くは親元には帰ってこなかったために、過疎が進むことになったのである。

その後、水窪では工場を誘致した。浜松にある浜松ホトニクスという先端企業の工場だ。そこで戦後の働き場を確保していたものの、私が調査した数年前に工場は撤退の方針となった。そこで地元で新会社を作って工場を引き継ぎ、下請けとして先端光学機器の製造を継続していたが、社員の中から推薦されて選ばれた社長さんは苦しい経営について語っていた。また木の値段が下がり林業が立ち行かないこと、とにかく若い人がいなくなって困っていること、つまり山村でどこでも聞く過疎の悩みを語っていた。

私たちは山村のいかに盛り立てて持続可能にするか日々頭を悩ませており、また政府も巨額の税金を投入して山村の活性化を追求しているものの、過疎は深刻になるばかりだ。実は政策的には山村を活性化するのは簡単で、木材に高い関税をかければいい。コメと同様に国内産業を守るために関税をかければ、政府には収入が増え、税金を投入しなくても山村は自然と活気づく。なにせ山には唸るほど木が育っているのだから。

しかし実際には自由貿易を標榜する国際的な立場からそれは非常に難しい。外国に日本製の車を買ってもらう時は関税をかけないよう求め、木材を輸入するのには関税をかけるというのは通らない話だ。工業のために林業と山村は犠牲になっていると言っても良い。

また一方で、宮本の観察からすると、木材の値段を上げるだけでは山村は持続できないことも分かる。子どもたちに高い教育を受けさせてそのまま帰ってこないのでは、どれだけ木材の値段が上がっても山村は消滅する。高い教育を受けた子どもたちが「大きな希望」を持って田舎に帰ってくるようにしなくてはいけない。それには親たちが自分たちの暮らしと地域に自信と誇りを持って、「帰ってこい」と言えるようにならなくてはならない。田舎の大人たちの自信をどう取り戻すのか、半世紀以上に渡り世代を超えて失い続けた自信と誇りを回復するのは容易なことではない。

私はこれから山村を盛り立てる主な産業は観光だと思う。人工林といえどもきちんと管理すれば美しい山になる。その姿とそれを代々受け継いできた村の暮らしや文化を外国人観光客に味わってもらう。団体の物見遊山ではなく、少人数の体験型観光だ。当の住人たちが「なにもない」と思っているところに外国人が来て喜んでいる様子を見れば、田舎の大人たちの頑なな気持ちも少しはほぐれるのではないか。「御殿」は建たずとも、多業の一つとして子育てする家族が楽しく暮らしていくのに十分な稼ぎになれば良い。

世界全体で見れば、持続可能な林業経営が行われているわけではない。多くの地域で自然を収奪するばかりの林業が行われている。いずれ外国産材が入ってこなくなる日が来るだろう。それがいつ来るのかはわからないが、それまで山を美しく手入れしてその時を待ちたいものだ。

 

 

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